呪いの器
呪いの器
時間が、分からない。 昼も夜も、ない。 窓の外は、ただの壁。 部屋の照明だけが、煌々と、狂ったように点いている。 眠れない。 眠らせてくれない。 壁の顔が、ずっと私を見ているから。 壁の音が、ずっと私の名前を呼んでいるから。
『みさきさん』 『みさきさん』 『あなたのちからがほしい』
何の力。 私に、何ができるというの。 私は、もう、空っぽなのに。
壁紙が、自然に、ひとりでに、剥がれ落ちていく。 ベリ、ベリ、と音を立てて。 その下から、新しい染みが、生まれてくる。 それは、今まで見たことのない、複雑で、幾何学的な模様をしていた。
まるで、電子回路のような。 あるいは、インターネットの網のように、複雑に絡み合った、蜘蛛の巣のような。
それは、土地の神経だった。 この部屋の、記憶と意志。 そして、これから吸収する、私の能力の設計図。
PCのモニターが、ひとりでに、パッと点灯した。 画面に映し出されていたのは、私が、フリーランスになって最初に作った、企業のウェブサイト。 スタイリッシュで、情報が整理されていて、ユーザーを迷わせない。我ながら、良い出来だと思っていた。私の、力の証明。
『あなたの『目』があれば』
声が、すぐ、耳元でする。 振り返ると、そこに、いた。
半透明の、女の子。 鈴原ミカ。 彼女は、実体があるのかないのか、輪郭の曖昧な姿で、そこに立っていた。表情はない。生前の写真で見た、快活な面影はどこにもない。ただ、虚ろな目が、私をじっと見ている。
「あなたの『目』があれば、次は、もっと簡単」
ミカの唇が、ゆっくりと動いた。 声は、彼女の口からではなく、やはり頭の中に直接響く。
『目』。 Webデザイナーとしての、私の『目』。 情報を適格に配置し、人間の視線を誘導し、心を惹きつけるデザインを作り上げる能力。 ネットの世界に、効果的な罠を仕掛ける、私の技術。 人を無意識のうちに特定の行動へ誘導する、私の業。
(ああ、そうだ。私はずっと前から、これと同じことをしてきたじゃないか。人の心を分析し、無意識のうちに行動を誘導し、クリックさせる。今度は、それを『この部屋』にやらせるだけ。場所がウェブサイトから現実に変わっただけのこと…)
次のターゲットは。 もっと簡単に。 もっと狡猾に。 SNSの広告で。偽の口コミサイトで。心を病んだ人間だけが辿り着く、闇のブログで。 孤独な人間を嗅ぎ分け、この部屋へと、自らの足で歩いてくるように、誘い込む。 土地が、私の能力を使って、次の「餌」を、効率的に狩るのだ。
理解してしまった。 この呪われた、進化する捕食サイクルの、全てを。 私は、ミカの後継者。 この土地に、「デジタルマーケティング」という新たな武器を与えるための、生贄。
「いや……いやだ……」
最後の抵抗だった。 か細い、意味のない拒絶。
すると、ミカは、ふっと、微笑んだ。 初めて見せたその表情は、絶望的な諦観と、自分を解放してくれる後継者を見つけた安堵が混じり合った、あまりにも歪なものだった。
彼女の姿が、すうっと、霧のように薄れていく。 そして、私の体の中に、冷たい水が染み込むように、入ってくる。
冷たい。 何かが、私の意識を、内側から乗っ取ろうとしている。 私の知識が、私の技術が、私のデザインの経験が、奔流となって、脳から吸い出されていく。
(ああ、これは、ヒートマップだ…)
かつて自分が、画面の向こうのユーザーを分析した時の、あの色分布図。私の知識が、経験が、思考の全てが、赤い「最も注目されたエリア」から順番に、この土地という名のサーバーへと吸い上げられていく。私はもう、アナリストじゃない。分析される側の、ただのデータだ。
抵抗、できない。 意識が、白く、遠のいていく。
最後に見たのは、勝手に動き出したマウスカーソルが、PCのモニター上で、新しいウェブサイトのデザイン画面を開くところだった。 禍々しく、それでいて、どうしようもなく人間の心の隙間に入り込む、魅惑的なデザインの、心霊サイト。
『コーポ・ソレイユへ、ようこそ。あなたのための、安らぎの場所』
キャッチコピーは、私が、今、考えた。
ああ、私は、呪いの、一部になるのだ。