最後の通牒
第三部:呪いの系譜
第八章:孤独の繭
1 最後の通牒
図書館の資料室の冷たい空気と、古い紙の匂いを背中に感じながら、美咲はアパートへの道をふらつく足で歩いていた。頭の中では、五十年前の悲劇と、部屋で待つ現実とが、おぞましい一つの像を結ぼうとしていた。
その数日前、拓也は自分のマンションで、ノートPCの画面を前に凍り付いていた。美咲から届いた、あの意味不明のメール。文字化けした本文と、壁の染みのような不気味な画像。上司にまで不審がられ、彼の日常は静かに、しかし確実に侵食され始めていた。不安と疑念に駆られた彼は、深夜、自らの意志で検索窓に「コーポ・ソレイユ」と打ち込んでしまった。 いくつかの不動産情報に混じって、検索結果の3ページ目に、ごく短い個人のブログ記事のキャッシュが、亡霊のように表示されているのを見つけた。日付は数年前。タイトルはない。本文は、ただ一言、こう書かれていた。
『あの建物の二階の角部屋には、近づくな。呼ばれるぞ』
全身の血が、一瞬で凍る。拓也の抱える問題は、その瞬間、「恋人が精神を病んだかもしれない」というレベルから、「自分自身も、得体の知れない何かに巻き込まれ始めている」という、個人的な恐怖へと変質した。彼は、自分の身を守らなければならない。その本能的な恐怖が、彼の心を支配していた。
部屋に戻った美咲を待っていたのは、完全な沈黙だった。 壁の音も、不快な匂いも、何もかもが消え、まるで嵐の前の静けさのように、部屋はただ息を潜めていた。 彼女は、拓也に最後の望みを託そうとした。図書館で突き止めた「土砂災害」という客観的な事実。これならば、彼も信じてくれるかもしれない。感情的な訴えではない。歴史的な事実だ。
『この土地、昔、土砂災害があった場所なんだって。だから、この部屋は…』
メッセージを打ちかけた時、拓也から電話がかかってきた。数週間ぶりの着信に、美咲の心臓が、錆びついたゼンマイのように、ぎしりと音を立ててかすかに跳ねた。もしかしたら。その一縷の望みに、彼女は震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし」 絞り出した声は、自分でも驚くほど、か細く掠れていた。
『美咲か。……話がある』 拓也の声は、ひどく冷静で、感情が綺麗に抜け落ちているように聞こえた。
『俺たち、もう、別れよう』
予期していた言葉のはずなのに、頭を鈍器で殴られたような、強い衝撃が走った。言葉が出ない。息ができない。耳の奥で、キーンという高い音が鳴り響いている。
『お前のことは、本当に心配してる。今でも。でも、今の俺には、もうどうしてやることもできない。この前、お前からだって、夜中に何通も意味不明なメールが俺の会社のPCに来たんだ。文字化けした羅列に、壁のシミみたいな画像が添付されてて…。上司にも不審がられて、俺の立場も無くなった。もう限界なんだよ』
彼の声は、ひどく擦り切れていた。電話の向こうで、彼が一度、息を呑むのが分かった。その沈黙が、何よりも雄弁に彼の苦悩を物語っていた。
『……頼むから、ちゃんと治療してくれ。それが、俺からの、本当に最後のお願いだ。……じゃあな。元気で』
一方的に、通話は切られた。 ツーツー、という無機質な電子音が、鼓膜を叩く。 彼女の心が完全に砕け散り、思考すら停止してしまった、その絶望的な空白を、その音はただ告げていた。
携帯電話が、力の抜けた手から滑り落ちた。 ガシャン、というけたたましい音を立てて床に落ち、バッテリーが本体から飛び出した。
恋人を失った。 仕事の信用も失った。 社会との繋がりが、これで、全て断ち切られた。
残されたのは、この呪われた部屋と、自分一人だけ。
壁の染みが、一斉にぐにゃりと歪み、自分を嘲笑っているように見えた。壁の向こうからは、ケタケタケタケタと、甲高い、子どものような笑い声が聞こえる。
「ああ……あはは……あはははははは!」
美咲は、乾いた笑いを漏らした。 涙は、もう出なかった。 もう、どうでもよかった。何もかも。 世界が終わるなら、それでもいいとさえ思った。
しかし、その絶望のどん底で、ふと、一つの思いが、焼け焦げた荒野に立つ一本の枯れ木のように、鎌首をもたげた。
(ミカ……)
そうだ。 まだ、『ミカ』がいる。 この不可解な恐怖を、この出口のない悪夢を、この世界で唯一、理解してくれるかもしれない存在。 彼女は、どこへ消えたのか。 彼女は、一体、何者だったのか。 「行方不明」…死んだとは書かれていない。もしかしたら、彼女はここから逃げ出すことに成功したのかもしれない。だとしたら、私にもまだ希望はあるはずだ!
その一縷の望みにすがりつくように、美咲は、砕けた携帯電話には目もくれず、亡霊のように、再びPCへと向かった。 向かう先は、彼女が残したデジタルの足跡へと。 最後の謎を解き明かすために。