同期(シンクロ)
第七章:壁の中の告白
1 同期
プチッ、という控えめな音とともに、カッターナイフの刃が壁紙の表面を切り裂いた。その小さな亀裂から、美咲は真横に、スッと刃を滑らせる。白いキャンバスに引かれた、一本の黒い線。それは、彼女が守ろうとしていた日常との、決別の線でもあった。
裂け目に指をねじ込み、力任せに引き剥がす。バリバリ、と乾いた悲鳴を上げて、壁紙が剥がれていく。その下から、化粧を剥がされたコンクリートの素肌が露わになった。築四十年の歳月を感じさせる、古びた灰色。そして、その中央あたりに、何か黒いシミのようなものが広がっているのが見えた。
(なんだろう……これ)
カビか、あるいは雨漏りの跡か。そう思いながら、美咲はさらに壁紙を剥がし、シミの全体像を露わにした。そして、息を呑んだ。 それは、単なるシミではなかった。 鉛筆か、あるいはもっと先の尖った何かで、無数に刻み込まれた、か細い文字の羅列だった。
『きこえるか』
『音じゃない 聞いてる 壁のむこう』
『わたしのこえ おとじゃない たすけて』
そして、その言葉たちの隅に、震える字で、こう書かれていた。
『 ゆるして 』
その一言を見た瞬間、美咲は確信した。これは、『ミカ』のメッセージだ。彼女がSNSの最後に書き残した言葉と、同じ。
物理的な証拠。 これさえあれば。 美咲は、震える手でスマートフォンを取り、壁の文字を写真に撮った。そして、すぐに不動産の佐藤に電話をかけた。
「佐藤さん!大変なんです!壁紙を剥がしたら、前の住人の人が書いたと思われる文字が出てきたんです!やっぱり、この部屋、何かあったんですよ!」
しかし、受話器の向こうの佐藤の声は、かつてなく冷たかった。
「相田さん、落ち着いてください。それは、器物破損というものですよ。賃貸契約違反です。修繕費用は、全額、お客様にご負担いただくことになります。申し訳ありませんが、これ以上、当社で対応できることはありません。業務の範囲を超えていますので、何かあれば、警察にご相談ください」
ガチャン、と一方的に電話は切られた。 公的なルートは、完全に絶たれた。不動産屋は、もはや彼女を、ただの面倒なクレーマー、器物破損を行う犯罪者としか見ていない。