偽りの安息
偽りの安息
最後の投稿を見た瞬間、不思議なことが起こった。 部屋で起きていた怪奇現象が、ぴたりと止んだのだ。壁の音も、不快な匂いも、鏡の中の影も、嘘のように消え去った。
美咲の心に、高揚感が込み上げてきた。
(効いてるんだ……!)
私が、この現象の正体を突き止めようとしているから、向こうが怯んで、身を隠したんだ。これは、一方的な攻撃じゃない。戦えるんだ。 数週間ぶりに、彼女は深く眠ることができた。悪夢も見なかった。朝、ベランダに出て、めちゃくちゃにされた鉢植えの残骸を片付けた。もう一度、新しい土と苗を買ってこよう。今度は、負けない。
彼女は、震える手でスマートフォンを掴み、拓也に電話をかけた。 この数週間、彼との関係は最悪だった。夜中に「壁が呼吸してる」と留守電を残してしまったり、「今すぐ来て、音がするの!」とヒステリックな電話をかけて彼を困らせたりした。それでも、この「勝利」を報告すれば、彼もきっと考えを改めてくれるはずだ。
「拓也!聞いて!やっぱり、私の気のせいじゃなかったんだよ!前の住人の人も、同じ目に遭ってたの!それを調べてたら、部屋の変な音、止まったの!私が、正しいってこと、証明できたんだよ!」
早口で、まくし立てる。しかし、電話の向こうの拓也の反応は、想像以上に冷えやかだった。
『……そうか。良かったな』
その声には、何の感情もこもっていなかった。彼が心配とストレスで板挟みになり、疲弊しきっているのが分かった。
『その、前の住人のことを調べてる間は、変な音が聞こえなくなったってことか。何かに集中してると、そっちに意識が向くからな。良いことじゃないか。一種の作業療法みたいなものだよ』
「違う!そういうことじゃなくて!これは、戦いなの!」
『美咲。もう、その話はやめないか。俺は、お前が心配なんだ。とにかく、ゆっくり休めよ。また連絡する』
ツーツー、と無機質な音を立てて、電話は切れた。 美咲は、スマートフォンを握りしめたまま、その場に立ち尽くした。 偽りの安息は、彼女の心を一瞬だけ軽くしたが、その代償として、拓也との溝を、もはや修復不可能なほど、深く、決定的にした。
スマートフォンの連絡先一覧を、指でゆっくりとスクロールする。親、大学時代の友人、元同僚。何十人もの名前が並んでいる。しかし、この恐怖を、この確信を、打ち明けられる相手は、もう、どこにもいなかった。