聖霊 その8
「どこだろ」
お兄ちゃんがそう言って、辺りをキョロキョロしながら歩く。
「本当に暗いんだな。木漏れ日すら殆どない」
将生さんが見えにくそうに目を細くした。
「お兄ちゃん、瘤のある木だよ。黒いグルグルのいた」
「あぁ、あの木か。えっと、この奥の方だな。そういえば、あのグルグルも消えてたんだよな」
「な、あの後ろの木じゃないのか。嫌な気配がする」
大倭さんがそう言って、先導するように歩き始める。
私たちはその背を追いかけ、木の瘤を確認した。
「鎖、ないね。この木じゃなかったのかな……」
自信がなくなってそう言った私に、屈んで根元を見ていた大倭さんが答えてくれた。
「いや、この木であってると思う。何かの残滓が残ってる。これは多分、怨嗟だ」
「怨嗟?」
お兄ちゃんが聞いてくれたから、私は内心だけで首を傾げる事にした。
「なあ、将生。さっきの旅行者から悲鳴が聞こえたって言ってたよな」
「うん、多分3人くらい」
大倭さんはなるほどと頷いて、鎖があった場所を調べている。
「怨嗟はあるけど、3人かどうか分からないな。ここにちょうど蟠ってる。今にも消えそうだけど」
「どこですか?」
お兄ちゃんが覗き込み、大倭さんの指差すところに手を出した。
「ここですか?えぇ〜、見えないな。触っても大丈夫そうですか?」
大倭さんの横に屈み、根元で手を泳がせていたお兄ちゃん。なんの手応えもないのか、不思議そうな顔で大倭さんを見る。
「俺も見えないな。消えかけてるのかな。この辺り?」
将生さんもそう言いながら屈み、木の根元に手を伸ばす。
「はっ……!」
弾かれたように手を引いた将生さんは、大倭さんとお兄ちゃんを交互に見て、次いで私の方を見た。
「今、一瞬……いや、これは彼女じゃない。美卯ちゃんは、彼女のこれを見たの?」
「え、将生。何か見たのか?見るのはおれの方が得意なのに」
くやしそうに顔を歪める大倭さん。しかし将生さんは驚いたままの表情で、私から目をそらさなかった。将生さんが言うこれとは、私の見たむいかさんの一連の映像のことだろうか。
「一緒かどうか分かりませんが……」
私は躊躇いがちに、将生さんに近寄った。そして、さっき将生さんが手を伸ばした場所に、腕を伸ばそうとした。言われてみれば、黒いモヤのようなモノが確かにある。しかし、怨嗟の場所に到達する前に、将生さんに手を握られた。不意に握られて、びくりと肩を竦める。
「ダメだ。女の子は見ない方がいい」
真剣な顔で言われて、私は手を握られたまま固まってしまった。
「祓った方が良いやつ?」
大倭さんの質問に、将生さんは難しい顔をした。
「いずれ消えるだろうけど、この映像を見てしまう人がいたらちょっと……」
「祓うなら良いものがありますよ。美卯、箒もってくる」
お兄ちゃんは立ち上がりながらそう言い、用具入れに向かおうとする。そのタイミングで、私から将生さんの手が離れた。お兄ちゃんについて行こうとしいる大倭さんは、将生さんに顔を向けて言った。
「箒が何か興味あるし、一緒に取りに行ってくる。犯人がそこらにいたら危ないしな」
大倭さんは将生さんに目配せしてそう言い、お兄ちゃんを伴って離れていく。将生さんは離れゆく2人を見送りながら説明してくれた。
「鳥居と狛犬の境界線を順序正しく通過すると、簡単な保護呪文が発動するようになっている。雷太と大倭は正しく潜ったから、保護されててこの影響を受けなかったんだ。でも俺は君と一緒に迂回したから、この映像を見てしまった。……これは、酷い。美卯ちゃんもこれを見たのだとすると、俺が共有できてよかった」
木々の向こうに2人の姿が消えたのを確認した将生さんは、視線を私に移してから立ち上がる。
「この内容は、君から雷太には言いにくいよね。いや、誰に対しても言いにくいか」
どきりと心臓が跳ねる。
それと同時に鼻の奥にジンとした痛みを感じながら、将生さんを見上げていた。
「締め殺されて、強姦される女性の映像を3人分見た。肩に取り憑いている彼女も、同じように殺された被害者なのかもしれない」
むいかさん以外に3人も同じような目にあった人がいたって事?むいかさんを入れたら4人。
ひょっとしたらもっと多いかも。
……酷い。
「そうです。殺されて、霊体を引きずり出されて……それから、それから……」
言葉に詰まる。言わなきゃと思う気持ちと、言いたくないと思う感情がせめぎあっている。
「大丈夫だよ、声に出さなくても。こんな映像を見るって事は、よほど強い思念が残っているんだと思う。怖かったよね」
酷い、そして、怖い。
人が殺される映像を見たのは初めてだし、こんな事をできる人間がいるなんて……。
そうか、私は怖かったんだ。
ずっと、ずっと怖かった。
大粒の涙がぼろっと溢れて頬を伝う。思い出したように体が震え始める。
「我慢してたんだね」
将生さんは震える私の右手を取り、その両手で優しくそっと包み込んでくれる。
手だけで自分から引き寄せないのは、怖がらせないような心遣いに思えて嬉しかった。
だけど自分から飛び込むなんて勇気はない。進みたい足を、ぐっと力を入れて堪えている。
「その肩の彼女に触れたら、俺にも美卯ちゃんの苦悩が分かるかな」
むいかさんに触れたら、将生さんにもあれが見える?映像を共有できるかもしれない。そう思ったら、強張っていたのが嘘のように、その胸に吸い寄せられた。腕の中に飛び込んで、胸に縋り付いたら声が出てきて、どうにも止めようがなくなって思いっきり泣いた。
「よしよし、怖かったね」
そっと包むように抱きしめられ、背中を摩ってくれる。
むいかさんの体験した事、全部が怖かった。あまりに理解を超える内容に詳細を説明する事もできず、だからといって受け止める事もできなかった。
私は背中と頭に撫でられる感触を感じながら、同時に肩に回された将生さんの、すこし暖かい手のひらを感じ取っていた。
「お……おい、何があった」
大倭さんの声だ。戻ってきたようだ。
「大丈夫、大丈夫……」
耳元で将生さんの声。私は何とか落ち着こうと深呼吸を繰り返す。頭を撫でていた手が離れ、肩の温かい手と、背中をさする手が残る。体温を感じるから、これはきっと将生さんだろう。頭はむいかさんだったのかも。
「2人が清めてくれる。少し離れようか」
将生さんの身体と一緒に木から離れる。
箒で掃く音が聞こえているから、あのモヤを祓っているのだろう。
「この箒、スッゲェな」
「美卯が祈ってたからだと思います」
「へえ、美卯ちゃん、凄いな……って、もうちょっと時間が必要だな。そんな顔するなよ雷太」
お兄ちゃんがどんな顔をしているのか気になり始めると、自然と震えが止まった。私は最後に大きく呼吸すると、将生さんから体を離して顔を見上げた。
無言のまま頷いてくれた将生さんの顔を見ると、急に恥ずかしくなって1歩後退し俯いてしまう。
「よし、とりあえず帰ろう。もう真っ暗だし。お2人も、我が家へどうぞ。色々聞かせてほしいです」
お兄ちゃんが場の空気を変えるように言った。
「良いのか?」
「親には昼間連絡してるので大丈夫です。夏休みだし1晩くらい良いって了解とってます」
大倭さんに答えるお兄ちゃん。私がむいかさんと話している間に、ちゃんと用意していたんだ。
「お兄ちゃん、やるね」
涙を拭きながらそう言うと、
「妹の一大事だからな」
そう言いながら照れくさそうにしているお兄ちゃんは、また先導するように歩き出す。4人揃って、神社の外を目指した。
「まだ陽が沈んでなかったんだね」
神社から出て家に向かっている途中のことだった。将生さんが驚いたように言って、西の空を見上げている。
「え、まじかよ。こんなに暗いのに?」
大倭さんも同じように空を見上げてそう言った。
「この時間なら、こんなもんですよ」
お兄ちゃんがそう答えた。
「静岡はまだ明るいんですか?暮れる時間が違うとか?」
私は将生さんにそう聞いた。
「数分くらいしか違わないと思うけど、俺達の街はもうちょっと明るく感じるな。街灯とか、店とかで明るかったんだなって、改めて思ったよ」
都会の人だ。
そんな都会にいる人が、どこに引っ越そうとしているのだろう。やっぱり、東京かな。
寂しくなって、思わず俯いてしまう。家までの帰り道、ずっと地面と睨めっこしながら歩いた。