聖霊 その6
部屋に戻った私は、勉強机に紙を置いて、横に向かって言った。
「それじゃあむいかさん、どこまで覚えてるか確認しよう」
静かにすぅと息を吸い込み、ゆっくり口から吐き出した。嫌な汗をかきそうだった。
「殺された時の記憶はある?」
”いいえ”
「じゃあ、渋谷でデートした記憶は?」
少し指が彷徨うが、やはり”いいえ”だった。
それなら、親じゃないって言い切れるのだろうか。
「悪い男ってのは、どこから出てきたんだろう?」
”し” ”ゆ” ”ん” ”か” ”ん”
「瞬間?あ、殺された瞬間だけ覚えてるって事?じゃあその後……あの、口に出せないような事されたのは覚えてる?」
”いいえ”
「霊体を抜き取られて、本体を目の前で……その……」
”いいえ”
”ご” ”め” ”ん”
「ごめん?どうしてむいかさんが謝るの?」
紙に落としていた視線を自分の肩に向ける。
むいかさんは祈るように手を合わせ、私に申し訳なさそうな目を向けていた。そして紙に指を滑らせ、少し長めの言葉を綴る。
「みう、ちから、もらう、かってに、すいとる?むいかさんが私からエネルギーを吸ったから、少し元気になったの?」
”はい”
さらに指が50音をなぞる。
”ごめん”と。
私は首を振って答える。
「何かが自分から抜け出た時に、なんとなく止める感覚も分かった気がするの。さっきくらいなら私にも影響なさそうだし、それでむいかさんが元気になるなら大丈夫」
すっと白い指が紙に這う。
「ちくせき?あ、蓄積するかもってこと?うーん、分からないけど、大丈夫じゃない?」
さらに紙に指。
「……おしえて?やり方なら説明しにくいなぁ。え、違う?もしかして、私が見た映像を?」
私が言いにくそうにしていたからかもしれない。
「そっか。頑張って説明するね。お兄ちゃんとか、さっきの将生さん達に言うかは、むいかさんが決めて」
そうは言ったものの、きちんと正確に言えるだろうか。あの時流れてきたイメージを共有できたら、どれだけ楽だろう。
覚悟を決めたようなむいかさんの顔を見た私は、同じように覚悟を決めて口を開く。
まずは重要かつ、きちんと言える内容から。
「むいかさんは首を絞めて殺された。顔は分からないけど男で、なんとなくだけど年上だと思う。デートは渋谷のカフェで、隣同士で座ってる。口説かれて……連れて行かれたのは、町田の廃墟ビル。ここまでで、何か思いだす事はある?」
いいえに白い指。
「そっか……。ビルの3階に連れて行かれて、そこには会社の応接間みたいな場所があって、黒い革のソファーに座って、そこで……その、服とか脱がされて」
そこまで説明した私はちらりとむいかさんの様子を見た。真剣に考えているようだが、思い出せないのか、ショックを受けた様子はない。
「ここまでは合意みたい。その後、ちょっと、そういうことがあって……しばらく裸で話してたみたい」
自分の顔が真っ赤になっていると思った。頬に手を当ててみると、熱気が吹き出しそうなくらい熱い。
「だけどその後、脱いだ服を着せられるの。上着とスカートだけ。制服じゃなくて肩が出てるハイネックのやつ。服がかわいいからってねだられて、着たらすっごく喜ばれて、くっついて楽しそうにしてる。でも、首をくすぐるようにしてた手が、ぐっと巻きついて……」
すうっと血の気が下がっていくような気がする。
「とっても頑張って抵抗してた。それがぐったりに変わって、ソファーに横たわって……」
私はまた確認のためにむいかさんを見る。首を傾げたまま、難しい顔をしていたが、それ以上の反応はない。
白い指が紙に向かう。
“こ” “う” “さ” “つ” “?”
「こうさつ……あ、そうだね。締め殺されてた。でもねむいかさん、残念だけどここで終わりじゃないの」
きょとんとしたむいかさんの顔は、昨日見た黒い時よりはっきり見えるような気がした。
それが、こちらの言葉もより鮮明に届いてしまうように感じて、私は口を開くのを少し躊躇う。
ぎゅっと拳を握り込み、しばし迷っていると、むいかさんの白い手がそっと添えられる。
「ごめん、大丈夫。話せば、思い出すかもしれないもんね」
私は大きく深呼吸をして、むいかさんを見た。しかしすぐに紙に視線を落として口を開く。
とても顔を見ながら話せる内容じゃないってのもある。
「男は椅子を持ってきて、むいかさんの頭上から……あれはたぶん、むいかさんの霊体だと思う。それを引き摺り出したのよ。服は今と同じ制服だと思う。黒くゆらめいて今にも消えそう」
だからだろうか。男はしばらくうっとりと眺めていたと思う。
「むいかさんは体も霊体もぐったりしてる。男はしばらくして椅子にむいかさんの霊体を座らせて、あの黒い鎖で固定した。そして、死んでるむいかさんの体を……」
体中を悪寒が駆け巡った。そのせいで言葉に詰まる。
でも、伝えなきゃ。
額に汗が伝ったが、これは暑さのせいなのだろうか。
不意に、視界に薄い膜がかかる。
むいかさんの腕が、私の頭を抱えている。
何事かと思っていると、視界から膜が消え、むいかさんの指が紙に向かう。
「も、う、い、い?……思い出したの?」
“いいえ” “よ” “そ” “く”
予測してくれたのか。よかった、私にはこれ以上口にできない。
思いだすのもおぞましい光景だ。
改めてむいかさんを見た。
あんな事に巻き込まれるような人には、とても見えないのに。
「記憶、取り戻そうね!そして、体を見つけなきゃ」
どこかに放置されているのか、処分されているのかは分からない。でも、このままじゃ、むいかさんの家の人にも何も言えない。
もちろん、犯人を捕まえる事だって無理だ。
そう言って、むいかさんを見た時だった。
自室の扉をノックする音。
「美卯、ちょっといいか」
「うん、いいよ」
返事をすると、すぐにお兄ちゃんが扉を開けた。
「連絡来た、菖蒲の親から。誰か娘の行方を知りませんかって」
私はむいかさんと顔を見合わせる。
「1週間くらい前らしい。同級生とキャンプに行くって、家を出たらしいぞ」
お兄ちゃんはむいかさんに顔を向けて言った。少しだけ首を捻っているむいかさん。覚えていないのだろう。
1週間前家を出て、あの男にその後すぐに会っているとして、お泊まりがあの廃墟?
ぎゅっと拳を握って怒りを抑えようとしている私に、お兄ちゃんが聞いてきた。
「行方は知らないが、探すなら協力しますって返事でいいか?」
私が反応を見せる前に、むいかさんが頷いた。
「了解。そろそろ出かける用意しとけよ。返事したら出るからな」
「あ、うん……」
扉が閉まるのを待って、私はむいかさんに横目で言った。
「早く見つけたら、生き返れるかな」
その答えは、私もむいかさんも知らない。
そんなコト、ありえないって言われても納得しただろうけど、もしかしてって、期待している自分がいる。
「将生さんが良いアイデアくれるといいな」
私は着替えようとクローゼットに手をかける。
ふと、着替えられるのだろうかと気になって、むいかさんを見た。
くっついている場所は、どうなるのか?
悩んでいる時間もなさそうだし、やってみないと相談もできないと思い、クローゼットからワンピースを出して椅子にかける。
着ていたシャツの下に手を入れると、えいっと声に出しながらぬいでみた。
「あ、脱げた?」
右手には汗だくのシャツがかかっている。服はすり抜けるのか?
不思議だなと思いながら、むいかさんが繋がっている位置を感じながら、ワンピースを頭から被る。すると、頭は抜けたのに、布が下に落ちない。
「え?」
よく見ると、むいかさんの頭がワンピースの中でもぞもぞしている。
「えー!なんで??」
どうしよう、着替えられないなんて。
「大丈夫か?」
扉の向こうからお兄ちゃんの声。
「だ、大丈夫!」
慌てて返事をすると、すとんと布が下に落ちた。
「あ、いけた」
意識すると抜けないって事なのかな?
これから着替えの時は、何も考えずにしないといけないのかも。
「出れるかー?」
「はーい!」
お兄ちゃんの声に答えて、私は自分の部屋から駆け出る。
「お、珍しいカッコしちゃって」
「お兄ちゃんに恥をかかせないためだよ」
「あーはいはい」
にやにやしながら言うので、少し気恥ずかしくなって1階まで駆け降りる。
先に玄関を出て、外で待つ事にした。昼過ぎの日差しに、手を庇にして空を見上げる。
陽は少しだけ西寄りに傾いているが、暗くならないうちに、2人を神社まで連れて行けそうだと思った。