聖霊 その3
「その本のこと、お母さんには黙っててあげるから、明日ちょっとつきあってよ」
「効果的な脅しだな。どこでそんな事覚えたんだよ」
少し体を引いて身構えるようにするお兄ちゃんに、真顔に戻って言った。
「あっち系で相談。神社にちょっと相談したい黒いヤツがいて」
「神社の中か?ふぅん……ま、いいぜ、一緒に行ってやる」
ぐっと親指を立てるお兄ちゃんも、私と同じく見える人だ。両親にはそんな能力は備わっていないようだが、同じ視界を共有する仲間が家族にいた私は幸運だった。
「ありがと!じゃあ、朝ごはん後に出発ね」
「え〜夏休みくらいゆっくり寝かせろよ」
「だめ、かわいそうだもん」
「かわいそう?」
不満げな顔が解除され、不思議そうに首を傾げる。
1階から、ご飯できたわよという声が届き、私はヒラヒラ手を振って部屋を出た。
翌朝、お兄ちゃんを叩き起こして、急いでご飯を食べさせる。
共働きの両親に合わせて朝食を取ると、7時半には家を出ることができた。
大きな欠伸をしながら、だらしなく歩いていたお兄ちゃんだが、神社に着く頃には目も覚めたみたいだ。
私は鳥居の右側から木に縛られている彼女の方に目を向けたが、ここからは霊体を確認できなかった。もうちょっと近寄らないと見えない角度だったのかもと思いながら、一礼して鳥居をくぐった。
目印をつけていたわけじゃないし、黒いので景色に紛れやすい。近寄らないと見えないのかもと考え、ずんずんと奥に向かう。かなり近づいているのに、霊体が視界を掠めない。少し不安になってきた頃、ぐったり項垂れた彼女を見つけた。
「白く、なってる」
近づくと完全な白ではない事に気が付く。一部はまだ黒いものの、灰色に近い色の部分と、白い部分の3色が入り乱れて混じっている。
「どうしてこんな事に……?」
黒い色と引き換えだったのか、体表の波打ちは昨日よりずっと穏やかだ。循環している事に変わりはないが、黒いあの塊のような警戒心が薄れていく。
「おーい、美卯。こっちか?」
ついてきていると思った兄の声が、遠くから聞こえる。
「こっちー!」
声を出して手を振る。
「あ、そこか」
砂利を踏む音が聞こえ、お兄ちゃんが顔を出した。
「一応、狛犬が壊されてないか確認してきた。まぁ壊されたとして、何か影響あるかは分からないけどな」
木の間から顔を出して私の横に並んだお兄ちゃんは、項垂れたむいかさんを見る。
「あれ?黒くねぇじゃん」
「うん。なんかのせいで白くなったのかな。それになんだか元気がないみたい」
私が説明すると、ふーんと返事をしながら、むいかさんを見ていたお兄ちゃんは、何かに気がついたのかその動きを止めた。
「この制服……うちのと似てる」
え、と驚いたが声にはならなかった。
「なあ、顔は見れないか?」
幽霊を動かす方法なんて知らないので答えようがなかった。仕方なく首を横に振って彼女を観察する。
顔は髪で覆われているし、下から覗いてもよく分からない。白くなったけど、朝でも薄暗いこの場では見えにくいのかも。
もしかするとこの鎖が、すべての元凶なのではと考えてお兄ちゃんに言った。
「この鎖、なんとかできないかな?」
「うーん」
お兄ちゃんは仁王立ちで腕組みをし、しばらく何か考えていた。
「あ、そうだ」
そう言うと、1人でさっさと用具入れの方に向かった。
何を思いついたのか不明だが、戻ってくるのを待つしかない。私はその間、むいかさんに話しかける事にした。
「私の声、聞こえますか?」
肩がピクリと動いたような気がした。
気だるげに顔を擡げるむいかさんの表情は、昨日よりも儚げで元気がない。
口をぱくぱくさせて何か言っているが、今日も聞き取ることができなかった。顔を上げているのも辛そうだ。
「どうして声がなくなったんだろう。それとも、私が聞こえないだけなのかな」
困ったが何の解決策も思いつかない。
「美卯、これ、使えないか」
背後からお兄ちゃんの声が聞こえる。
「ほら、よく言ってるだろ?箒神の事。祓い……清、め……」
お兄ちゃんから声が消えたので振り返った私は、その視線がむいかさんに向かっている事を確認した。
「菖蒲?」
パタリと地に倒れる箒と、驚いた顔のむいかさん。私も同じくらい驚いた顔をしていると思う。
だって、お兄ちゃんが彼女の名前を知っているなんて。
「お兄ちゃん、むいかさんの事知ってるんだ」
そう言うと、お兄ちゃんはむいかさんから視線を外す事なく答える。
「同級生だからな。お前こそ、名前で呼ぶほど親しかったのか?」
私と会話しているようだが、お兄ちゃんは口以外は一切動かさず、目はまだ見開いたままだ。ショックが大きいのか、信じられないのか、どっちかだろう。
「昨日、鎖を千切ろうとして色々見ちゃったの。名前はその時に知った。むいかさんの服、お兄ちゃんの学校の制服なんだね」
「そうだ……」
ほとんど搾り出すように言ったお兄ちゃんは、その場でザッと膝をついてしまった。力が抜けたって事かな?
私はなんて声を掛ければ良いのか、何も思いつかなくてお兄ちゃんを見る。お兄ちゃんは上から下まで、じっくり彼女を観察していた。やがて立ち上がると、木の横に移動し、鎖をたどって1周してきた。最後に屈んでむいかさんと視線を合わせる。
「お前、どうしたんだよ。夏休み前まで、普通に学校来てたのに」
普通を装った時の声だ。お兄ちゃんはむいかさんのこの姿に、かなり動揺している。状況分析しようと色々動いてみたけど、気持ちが追いついていないみたいに。
私たち兄妹にとって、白い人や黒い人は【死んだ人】だ。
お世話になった近所の人や、観光客らしき人まで様々だが、同級生というのは初めての経験に違いない。死とは無関係に感じていた人が、死んだと思われる姿でそこにいる。
それって、どんな心境だろう。
むいかさんは何度も頷いて、何かを訴えながら泣いていた。
「どうして声が聞こえないんだ。俺が聞き取れてないだけか?それとも、いつもの白いのとは別で、幽体離脱とか……」
本当は生きてるのではと希望を抱いている。私も考えなかった訳じゃない。でも、私にも原因は分からない……
静かに首を振って回答する。
「最初はちゃんと聞こえてた。その鎖を千切ろうとしてからなの。あ、待ってお兄ちゃん!触る前に覚悟して」
鎖に手を伸ばしかけていたお兄ちゃんは、寸前で動きを止めた。そのまま顔だけ私にむけ聞いてくる。
「何の覚悟だ?」
その問いに私は、喉元を押さえるようにして答えた。
「むいかさんが、殺される前後が、見える」
溺れかけているような息苦しさ。思い出しただけで、息が詰まりそうだ。
お兄ちゃんは少し考えるようにした後、むいかさんに問う。
「美卯が見たってんなら、お前やっぱり死んでるんだな。幽体離脱とかじゃないのか。その前後って俺に見られたら嫌とかある?」
むいかさんは首を傾げる。
「このままなのと、俺に見られるの、どっちが嫌だ?」
迷いがむいかさんに見える。しかし、視線を2度左右に彷徨わせるとゆっくり頷いた。
「現状打破だな?」
また、頷くむいかさんを見て、お兄ちゃんは木の横に回る。
「よし、いくぞ」
気合を入れるようして言うと、鎖を掴んで引き千切ろうとした。
しかし……
「う、うん?つ……掴めない」
お兄ちゃんの手は鎖をすり抜ける。何度やっても木の幹を撫でるだけ。変な映像も見なければ、鎖を解くヒントもなかったみたい。
「ダメだ」
何度もやっていたが、鎖に触れることができないようだ。
私もやってみようかと思ったが、またあの映像を見てしまうかもしれないと思うと躊躇ってしまう。できれば、もう2度と見たくなかった。
「美卯、菖蒲は殺されたって言ってたよな。犯人の顔見たか?」
私は首を振って、映像を思い出す。嫌悪と吐き気と悪寒が同時にやってきたが、犯人の顔は見てないと思う。