聖霊 その2
どうして泣いているのか、なにが悲しいのか聞いてみようか。
誰かに縛られているみたいだが、あれは誰がやったのだろう。
「……しい、く……や……しい……」
「あの……」
好奇心に負けて声をかける直前、悔しいと呟いていたような気がしたが、自分の声にかぶさって聞き取れなかった。
黒い人は私の声に気がついて顔を上げる。さっと警戒の色が張り付いた。
「どうして泣いてるの?」
問いかけると、驚いた顔をする。
「わたしが見えるの?」
驚いたようにそう聞いてきた。ゆっくり頷いて、もう1歩近づいてみる。
揺らめく黒い姿は煙のように頭上から煙を出しているが、それは立ち登って消えず、裏に回って体に戻っているようだ。循環しているように見える。
時々、木にへばり付いている黒い塊も、こんな感じに循環しているが、同じなのだろうか。
体表全体が波打っていて、制服もブレザーのように見えるがそれ以上の特徴は分からない。
今にも消えそうな揺らめきと対比して、彼女を縛っている鎖は黒々と異彩を放っていて不気味だ。同じ黒なのに、より鮮明にはっきりとしていて、禍々しい。
「お願い、助けて!」
前のめりになって叫ぶ黒い人は、その鎖によって体を引き戻され、木の幹に背中を打ち付ける。
「どうして縛られているの?」
ふるふると首を振る黒い女。
「思いだせないの」
そんな事もあるのかと思いながら、女子高生が縛られている木をぐるりと1周した。
「この鎖の事は覚えてる?」
どの角度から見ても、色合いは変わらない。揺らめきなどなく、しっかりそこに存在しているようにも見える。触っても大丈夫だろうか。
「憶えてないわ。どうしよう、何も憶えてない」
溢れる涙を見ながら、ふと首を横に倒した。
「それなら、どうして泣いてるの?」
「……分からない。も、もしかすると、鎖が痛いから、かな」
そう言って首を傾げた彼女の涙が頬を伝い、ぽとりと落ちた。
私は何気なく雫の行先を見ていたが、それは地面に落ちる事はなく、ふわっと溶けて彼女に還元されて行く。
「やっぱり、循環してる……?」
黒くて人の形をした霊体でこんな状態のモノを見た事がない。
だから、判断しようがなかった。
「でも、泣いてるし、助けるべきだよね?」
結論だけが口からこぼれた。
決めたら行動あるのみ。私は鎖を引きちぎってみる事にした。
「痛かったら言ってね」
鎖をつん、と突いてみる。私にも彼女にも刺激はないようだ。
それならと、鎖をむんずと掴む。
「んん!」
思いっきり引っ張ったその瞬間。握っている手にびりっと刺激が走る。痛くて放したかったのに、手が固まってしまったのか動かない。
「え!」
次いで目の前がチカチカして、色んな場面が脳裏を駆け巡った。
この人は、殺されてる。
ここじゃない所で辱められ、締め殺された後、この状態に無理矢理された。
どこかの廃墟だ。体から霊体を引き摺り出した男が、向かい合わせた椅子に彼女の霊体を鎖で縛り付けていた。そして中身のない彼女に対して、見るもおぞましい行為に耽っている。
もう、死んでいるのに。
何の抵抗もできない彼女の腕が、上下している。
椅子に縛られている霊体は、状況が読めないのか、目を見開いてそれを見ていた。
何回も、何回も、男は嬉々としてその行為を続ける。時々霊体の彼女を振り返り、見ている事を確認しては行為に戻る。顔はよく見えないのに、恍惚としている事は判った。
情報量の多さに眩暈を覚え、寒気を覚える。息苦しいし、体の色んな所が不快で堪らない。溺れそうな息苦しさを覚えて、意識が遠のきそうだ。
「菖蒲むいか」
その名を呼んで、私の視界は黒く閉ざされた。
チーチチチチチチチチチ
ヒグラシの鳴く音が聞こえる。
「1匹だけ残ってたのかな……」
自分の声に覚醒が促される。
ふっと開いた視界の先に白い靴。ローファーのように見えるが、黒でも茶色でもない。
視界をあげると、無彩色の悲しい目が揺れていた。
黒い霊体を縛るさらに深く黒い線。彼女の現状は、黒い鎖で木に縛られたままだった。
辺りはかなり暗いのに、微発光しているのか彼女の周りはよく見えた。
「菖蒲、むいかさん」
はっとした表情のむいかさん。何度も頷きながら、涙を流している。
自分の名前を思い出したってことかな?
でも、なんか変だ。
口をぱくぱく動かしているのに、気絶する前まで聞こえていた声がなくなっている。顔つきも心なしか違って見える。
「むいかさん、殺されてたんですね。見ました、男を。デートした渋谷のカフェとか、連れて行かれた町田の廃墟とか、殺された時の様子、とか……」
言ってて息苦しくなる。
中2の女子が見ていい映像じゃなかったけど、殺されているこの人に言っても仕方ない。
彼女の死体はあのままあそこに放置されているのかな。
体の近くに置かれていたはずの霊体は、ある日この神社に運ばれて、今こうして繋がれている。私が見た映像は、霊体が主体だったから、肉体の様子はよく分からない。
私は辺りを見回す。
木々の合間から斜めに射す橙色は赤みがかって、先ほどよりかなり薄暗い。
陽が暮れようとしている。
もう帰らなければいけない時間だ。
「ごめん、むいかさん。明日も必ず来るからね」
むいかさんは頷くと、涙を止めて笑ってくれる。右手を鎖の位置まで懸命に上げ、バイバイと手を振ってくれた。
帰り道を急ぎながら、ふとお兄ちゃんの事を思い出した。
あんな映像を見てしまった後だ。家族とはいえ、男の人と顔を合わせるのに抵抗がある。
トラウマになりそうなくらい強烈な映像だった。
優しく甘く口説かれて、その気にさせて、廃墟で殺されるなんて。
あの男が異常だという事は分かっているつもりだ。すべての男がそうだとは思わないが、あまりにリアルな体験だったので、兄ですら嫌悪を覚えるのではないかという不安が、心中で激しく渦巻いている。
それに、むいかさんをどうしよう。あの男をどうしよう。
早歩きで帰ってきたせいで、息が上がっている。
自宅のドアノブに手をかけながら、私は息を整えていた。
「だめ、アイデアがない。お兄ちゃんに相談しよう」
小さく決意して、ドアを開ける。
「ただいま」
これも小さく言って中に入った。
「おかえりなさい。もう少し待ってね、お夕飯」
母が台所から声だけ投げてきた。
「はーい」
私も声だけで返事して自分の部屋に向かうために、2階への階段を昇る。
2階は奥が私の部屋で、手前がお兄ちゃんの部屋だ。奥に向かって着替えようと思ったが、嫌な事は先に済ませようと、思い切ってお兄ちゃんの部屋のドアを開けた。
「うわ!」
勉強机の前で飛び跳ねるようにして肩を竦めたお兄ちゃんの脇から、ボトボトと本が複数なだれ落ちる。
「あ、ごめ……」
駆け寄って拾おうとした本の中に、女性の裸が見えた。
謝りかけた言葉が引っ込み、代わりに非難が口から出る。
「な、なんでこんなもの読んでんのよ、不潔!」
このタイミングでそんなモノを見ていたなんて、最悪だ。
「な!お前、いきなり入ってきておいて、不潔はねえだろ」
憤慨した口調のお兄ちゃんは、そそくさと本を隠しながら言った。
「不潔なものは不潔よ!」
思わず言い返すと、ムッとした顔で腕を組むお兄ちゃん。
「不潔どころか健全が横断幕背負って、立体交差点を堂々行進しとるわ!」
ふんっと鼻息荒く、意味不明な事を言われてしまった。
「何よそれ」
思わず呆れた声が出た。
風呂は入ってるとか、そんな返しなら分からなくもないのに。
お兄ちゃんなりに動揺しているようだ。
「ま、まあ、みんなと同じだって事だよ」
返答がきたが、私も負けじと返す。
「それじゃ変態」
嫌そうな顔で言ってみたが、本当に嫌だと思ってるのか自分でも分からない。
「いや、いや、めちゃノーマルでしょ。じゃあ、男の裸ならよかったのかよ」
「え、それは……」
「みんなが興味ある本に、俺も興味ある。だから友達が貸してくれたし、次には別の奴に渡す。男ってのはこうやってコミュニケーションとるんだよ」
「そ、そうなの?」
そうそうと真顔で頷いているお兄ちゃん。誤魔化された気もするけど、普通に話せると分かったから良しとしよう。
お兄ちゃんはお兄ちゃんだ。