聖霊 その19
「大丈夫?」
上から覗き込んでいるグレーの瞳。
「は、い」
なんとか返事をした雷太は、はっとして前方を見た。
礼が何事もなかったような様子で、壁と空間を検分している。
「力の方向は合ってる。でも、何かが足りないな」
本当に同じ場所に立っていたのかと疑いたくなるほど平然としている礼に、雷太は何も言えず注目していた。
空間の揺らめきはすでに見えない。しかし、壁の絵が黒い煙を吐いているように見えた。
冬香もそれに気がついたようで、雷太の方に顔を向けて口を開く。
「封印したほうがいいでしょうか?」
「そうね」
背後から若月の声。
すぐに再挑戦とならずに済んだと、立ち上がりながら胸を撫でおろす。
「では一時的に封印します」
チリチリと氷が張っていくような音がしたので壁を見ると、冬香が手をかざしている。絵が何かに遮られて隠れつつあるのを見て、雷太の思考が停止した。
驚き疲れたのである。もう何に反応して良いのかわからず、畢竟、固まって立ち尽くすしかない。
「ね、礼。まだ使ってない数字あったわよね」
若月の考えながら発言する声に礼が答える。
「カウントダウンのやつか?」
「そうよ。9がないの、ずっと気になってたの」
「10だけ言って、876と続いて終わりだろ。最後までヒントだったのか」
「ねえ、10って高度じゃない?ここそれくらいの高さよ」
若月と礼の会話がまったく理解できないのは、雷太だけではなかったようだ。冬香が小さく手を上げて聞いている。
「その数字というのは、どこかの能力者の見たものですか?」
「安堂寺の……未来視ができる能力者から、その、まあ……なんて言うか……」
若月が歯切れ悪く言うのに対し、冬香は一番知りたい事を聞いた。
「分かっている数値を教えて頂けますか?」
ぱっと表情を明るくした若月は、人差し指を振りながら答える。
「34、30、58、135、29、54、10、8、7、6、ここで終わりよ。最初の6つはこの場所を表していると思うの。実際に、ここには力場があるしね」
若月の回答に、冬香は少し考えて口を開く。
「場所ということは……北緯34度40分58秒、東経135度29分54秒という事でしょうか。高さ10メートルを加えて考える……それなら残りは距離か、あるいは時間ではないでしょうか?87.6センチかミリで力が集約されている。もしくは87時間単位。8時7分6秒かもしれません。そこで力が集約かあるいは変化するのでは?」
「……うん、一理あるわね」
若月は拳で口を隠し、考えながら同意している。
「もし距離なら、メートルだと離れすぎているわね。冬香ちゃんのいう通り、ミリかセンチだと思うわ」
その言葉を受けた冬香は、礼に顔を向けて微笑む。
「立てって、事かな?」
頷く冬香に、礼は嫌な顔1つせずに壁に向かう。
「一番、強く力を感じる場所に立ってください」
「敬語なしで頼んでくれたら喜んで立つ」
冬香は困った様に眉を寄せたが、すぐにそれを解除して礼に言った。
「……危険だと思う力点に立って」
魅惑的な笑みが冬香に向かって答える。
「喜んで」
雷太が先ほど立っていた場所に礼は戻って、しばし前後を微調整する。
「ん、ここかな。一番強いのは」
冬香に顔を向けて言う礼の巻毛が風に煽られている様にチリチリ揺れていた。
「オーナー、メジャーありますか?」
「ええ、あるわよ」
若月がデスクに向かい、引き出しを開けてメジャーを取り出しすぐに戻ってきた。
「測るわね」
壁からの距離を測り、76.9センチだと全員に告げる。
「87.6じゃないのか。じゃあ、やっぱり時間か?夜のその時間にここにいても、特に変化を感じた事はない。876時間周期だとすると気づくだろうし、分でも秒でも今まで気がつかないのは不自然だ。だとすると朝8時7分6秒とか? 早朝だな……」
礼がげんなりとした顔で言い、冬香が首を傾げて口を開いた。
「朝8時は早朝ではありませんよ」
「いや、早いじゃん」
「いいえ、すっかり朝です。みな起きて、朝食をとって出かける準備をしているか、すでに家を出ている時間ですよ。外に出なかった私ですら、7時には起きていましたよ」
呆れたような声色に、雷太は冬香に目を向ける。急激に日常会話が戻ってきて、安堵すると同時に思考が戻ってきた。
「いや、朝は苦手で……でも、若月も似た様なもんだろ」
話を振られた若月は、慌てたように手を振る。
「あたしの仕事は終わったもの。いなくても平気でしょう?」
確認するように聞く若月に、冬香は微笑みながら頷いた。
「お2人とも起こしてあげます。明日、7時にはここに居てください」
にこにこ言う少女は、雷太でも感じ取れる威圧感があった。そのせいか、大人2人は無言で頷いている。そこに割って入るのは勇気がいったが、こちらの事を伝えねばと慌てて口を開いた。
「あの! きょ、今日の夕方には帰る予定なんです」
3人は思い出したように雷太を見た。
「仕方ないわね。泊まってるホテルと家族構成を教えて。お母さんには上手く説明するから、あなたはしばらくここにいなさい。妹を残していくのは心配でしょう?」
雷太は若月の言葉に無言で頷いた。信じるしかないし、頼るしかないのだ。
何も分かっていない。何も出来ない。なんて無力なんだろうと歯噛みしたい気分だった。
何をどうしたのか分からないが、戻ってきた若月さんが言うには、母は1人で箱根に戻ったらしい。父へも母経由で手紙が行くので大丈夫だと言われたが、父が納得する様な何を書いたんだろうか。
そんな疑問を大いに抱きながら、雷太は閉店後の写真館の床に座って、4人でピザを囲んでいる。朝が苦手な2人は、このまま店で寝るらしい。それならと自分も立候補した。
どのみち母がチェックアウトしたのなら、寝るところもない。ここに居ていいと言われたので、言葉に甘える事にしたのだ。
「おいしい……」
感慨深げな声色でピザを食べた冬香が言う。
「なぁお」
返事をするような猫の声に、雷太は周囲を見回した。
冬香の膝に、いつの間にか金の猫が乗っている。最初からいたというのだが、雷太は見ていない。
「怨霊が苦手なのよね、マイカ。今まで隠れていたんです」
微笑む冬香の口元を、ふんふんと嗅ぎながらまた一つ鳴き声をあげるマイカ。あまりにも絵になるその光景に、雷太は納得の意を伝えるのも忘れて見とれた。ややして急激に恥ずかしくなり、目を逸らして天井を見ながら言った。
「おいしいですね。なんだか打ち上げみたいです」
「打ち上げ?」
冬香からきょとんとした声音が返ってきて、雷太は目線を下げて冬香を見る。その表情から声音と同じ印象を感じ、少し焦りながら口を開く。
「え、あ……。ちょっと、違いましたかね? 夜に時間外の施設で、輪になって食べてって、部活の打ち上げみたいだなって」
「楽しそうですね」
冬香の瞳がキラキラとしているように見えた雷太。何に興味を引いたのか分からないまま、嬉しそうな冬香から追加の質問がきた。
「あの、質問なんですが。打ち上げとは、ピザとコーラで行うものなのですか?」
コーラではなく、お茶を飲みながら質問する冬香に、雷太はこの子は帰宅部なのかと思いながら答える。
「余裕のない時は、お茶とお菓子だけですよ。部活のメンバーにもよるし、絶対にピザとは言えないけど……うちの仲間内ではお菓子が定番かな」
「お茶とお菓子でも、こんな風に円になって行うのですか?みんなで好き勝手話しても良い場なのですか?」
雷太は頷いて答える。
「好きな人と好きなだけ話していい場ですよ。だって打ち上げだし」
「そうなんですね」
瞳が興味津々と言っている。そんなに特別な事ではないのにと、雷太は冬香の生い立ちが少し気になった。言動から少し普通ではないだろうと思っていたが、どれほど常識とかけ離れているのかは分からない。どう返していいのか分からず、雷太はピザに手を伸ばした。




