聖霊 その16
「あ、オーナー、やっと帰って来た。誰もいなくて困ってたんですよ〜」
ガラス扉の前でベリーショートの茶髪が片手を上げていた。
ジャケットを肘下まで捲り上げ、カメラバックを2つ下げた男は、ホッとしたように胸を撫で下ろしている。
「あら、鷹じゃない。今日来る日だっけ?」
若月がそう言うと、鷹と呼ばれたベリーショートの男は、カメラバックを持ち上げて言った。
「何言ってんですか。納品の日でしょう?」
「あ、保育園の運動会!」
「そうです。編集終わったんで、機材返却と一緒に持ってきたんですよ」
「わざわざ悪いわね。機材なら週末でもよかったのに」
「ま、そうなんですけど。ちょっと他にも相談があったんで。ところで、写真のお客さまですか?」
ひょいと覗かれた美卯は、ぺこりと頭を下げる。
「そっち関係に片足突っ込んでる、写真のお客さまよ」
若月は鷹に説明すると先ほどと同じ様に、先にスライドしたガラス扉の向こうへ行く。
少し緊張した面持ちで、美卯を手招きした。
美卯もつられる様に緊張した顔で足をすすめる。さっきつっかえた辺りで、ぎゅっと目を瞑って歩いていたが、そのまま中に入ってきた。
「あぁ、ダメだったわね」
若月のその声で、美卯は閉じていた目を開ける。
椅子とテーブルが3組ある、待合室のようなロビーに立って、辺りを見回している。さっきは見ていないだろう風景にか、若月の言葉にだったのか、不安げな顔で振り返った美卯。
「そうだわ」
若月は思いついたように鷹に目を向けた。
「ねえ、心霊写真、撮れる?」
店舗に移動し、機材をセッティングしていく。美卯は物珍しそうにあちこち見ている。
鷹はカメラを取り出し、何やら設定しながら若月に言う。
「ええっと……ピントでもないし、フォーカスでもない。ん〜、でもシャッタースピードは変えたくないし……」
ぶつぶつ呟く鷹を見ながら、若月は幼少期の訓練を思い出していた。養母と作った手の中の丸い結界。あれを効率よく練習できる道具を、引き出しの中から出す。
「ねえ、鷹。この練習覚えてる?」
カメラの設定画面から顔を上げた鷹は、若月の持っている懐中時計のような金の丸い物体に眼を向ける。
「もちろんです」
ピンっと小さな金属音が鳴り、金の蓋が開く。中には文字盤などなく、円が5周連なっている。中心に独立した歯車が2つ上下に配置されていた。
一番外側から内に向かって6、5、3、2、1。歯車は上が4、下は7となっている。
沙と菟が根をあげたそれを鷹に手渡した。
「アコールって名付けたんでしたっけ」
「そうよ。力の使い方なんだけどね、音楽の捧げものの感じでいけるかしら。8小説の主題でいいわ」
「うへぇ、またそんな難度の高い……」
「安定したらそのままキープよ」
アコールを持って眼を閉じる鷹。しばらくすると単音のメロディーが若月の耳に届いた。
「いいわ、そのままキープしてて。さ、美卯ちゃん。こっちに移動して」
音が聞こえないからなのか、首を傾げている美卯を、花背景の前に誘導する。
「ストロボなしで行くわよ。さ、鷹。いいタイミングで撮って」
カシャ、カシャと数回シャッター音が聞こえる。
「どう?撮れた?」
画面を確認していた鷹は、ややして顔を上げて首を左右に振る。
若月、鷹、美卯は3人とも顎に手を当てて、唸るようにして考える。
鷹の集中はまだ切れていないようで、アコールからは音が途切れていない。
「ねぇ鷹。蟹のカノンで同調したらどうかしら。あたしが逆光するわ。あ、美卯ちゃんはそのままね」
会話についていけないだろうとは思うが、先ほどのように説明している余裕がない。新しいことを試みるのは楽しいが、集中を切らして機材に影響が出てはいけないからだ。
カノンが一周したところで、練り上げた力を四角に形成して、カメラレンズの前に持って行った。
「結界の一種ですか?」
「ええ、それに近いわ。レンズフィルターだと思ってくれない? それ越しにファインダーを覗いてみて。触れないようにね」
ぐぐぐっと結界を伸ばす若月。
それを美卯の方に向けると、鷹がカメラを向ける。
「まあ、俺は見えてますけど……どうなんでしょう。見え方が特別変わったって事はないですね。ま、でも一度撮ってみますね」
カシャっと小さな音が鳴る。
確認しているのか、カメラを操作していた鷹だったが、ややして首を横に振った。
なにやらカメラをイジって再度構える。
「うん、なんかいけそう」
再びカシャと小さな音。
「あ〜、光量あればいけそっ」
鷹の言葉を受けた若月は、にこりと微笑むと美卯に顔を向ける。
「おまたせ。じゃあ美卯ちゃん、せっかくだから笑って」
カメラの前で手を掲げている若月と、鷹を交互見ていた美卯。
「手元に……陽炎? あ、消えた」
美卯の呟きに、頷いて答えた若月。見えたのが嬉しかったのか、美卯が少し微笑む。
カシャカシャと鳴る音が静かに響く。こんな静かな撮影も珍しい。
しばらくシャッターを切り続けた鷹は、一度データを確認しましょうと言って中断した。
店のPCで写真を確認する。
美卯にも見えるように画面を少し動かす。
200枚近い写真データのうち、異彩を放つ1枚があった。もしやと、急いで開く。
「むいかさん……」
背後から覗き込んでいた美卯がそう言った。
「撮れたわね」
ほっと安堵の息を吐き出した若月。前に差し出した手のひらに、鷹のハイタッチ。
でも、何も解決していないと椅子を回転させた。背後に立っている美卯は、若月と同じ目の高さにいる。
「データは渡すけど、犯人への照会はこちらの伝手から行うわ。これからやる事がたくさんあるわね」
画面ををしげしげと眺めていた美卯だったが、若月の言葉に首を傾げ、目をぱちくりさせた。
「美卯ちゃんはまず、力の方向性を自覚してほしいの。無意識に結界を張ったりできても、自分を護れないのじゃ意味ないもの。自らの魂を保護し、これ以上融合をしないように努めて」
「融合……」
「生気を与えれば霊体は元気になるけど、自我を保てなくなる可能性があるの。今彼女に節度があるのは、それだけ能力が高かったってことね。このまま維持できるかもしれないけど、自我を失う可能性もある。そうすると、彼女は美卯ちゃんの体を欲し、乗っ取りを開始するわ」
「の、乗っ取り?」
「そうよ。霊体の本能みたいなものなの。放置すれば、美卯ちゃんは心を病んで、体も病んで死ぬか、自分を放棄して彼女に体を明け渡すか、どちらかになる。自ら望んで怨霊に体を明け渡す人もいるけど、相性が悪ければ長生きできない。そうなれば共倒れよ。誰も助からないなんて不幸だわ」
鷹がうんうんと頷いている。
「むいかさんが存在を留める方法ってありますか?」
若月は少しだけ上を向いて考える。ややして美卯の目を見て言った。
「美卯ちゃんから……いえ、生きている人間から離れて、植物に寄生できれば可能性はある。元の素質を考慮すると、精霊みたいな存在になる事も可能よ。ただ、ゆっくり自我は失っていくでしょうね。それでも、苦しみから解放され、穏やかに過ごせるようになるわ」
複雑そうな顔の美卯。今は記憶が封印されているから、一般の怨霊よりも苦しみは少ないのだろう。でも、危ういバランスの上で成立している今の状況を、ずっと維持できるとは思えなかった。少なくとも、美卯は体力も消耗しているように見える。
「今、無理に2人を引き剥がすと、美卯ちゃんの体にも霊体にも、大きな負担をかけることになるの。引き離す過程で、ショック死する可能性もあるし、うまくいったとしても、取り憑かれやすくなる。だから本来は、美卯ちゃんに訓練してもらって、自らの力で時間をかけて離れてもらう必要があるのよ」
怖い内容を言っているはずの若月は、笑みを湛えている。美卯は首を傾げて、若月の言葉を一部だけ拾う。
「本来は?」
美卯の拾った言葉が嬉しく、若月は両手でぱちんと手を叩き言う。
「そ、本来は。少しあたしに当てがあるの。今はちょっと対応できないけど、明日もう1度ここに来れるかしら?彼女の事も、あなたの事も解決できるかもしれないわ」
赤みが挿した顔で、若月を見上げる美卯。
「あ、ありがとうございます。明日なら、まだ大阪にいます。お兄ちゃんと来ても良いですか?」
「もちろんよ」
前髪をさらりと揺らした若月は、にこやかに微笑んで答えた。




