聖霊 その1
「おーい、美卯ちゃん。今から神社かぁい?」
遠くから呼び止められた私は、声の方へ勢いよく首を捻った。後頭部の真ん中で一つくくりにした髪が振り子のように動き、頬を打って落ちる。
「佐々木のおばあちゃん。うん、そろそろ掃いとかないとね」
手を振りながらそう答えると、佐々木のおばあちゃんは向こうの畑からさらに声を投げかけてくる。
「雷太くんは一緒じゃないのかい」
雷太は私の兄だ。一昨年まではよく一緒に掃除していたが、私が中学校に上がってからは1人になった。
「お兄ちゃんは来週掃除に行きます」
そう答えると、うんうんと頷きながら、佐々木のおばあちゃんは私に手を振る。
「夏休みなのに、ありがとねぇ」
月に1回程度しかしていないボランティアで、こんな風に感謝されるのは少し申し訳ない気もするが、同時に嬉しくもあった。私も手を振りかえして、軽く頭を下げると足を進めた。
畑の終わりに差し掛かったころ、背後から佐々木のおばあちゃんの声が小さく届く。
「最近、ぶっそうだから早めに帰るんだよー」
「うん、わかった〜!」
さっきよりもずっと小さくなったおばあちゃんに手を振り、自分のすぐ横をしばしじっと見つめる。ややして浅く頭を下げると神社に向かった。
「昼過ぎだし、夕方前には終わるよね」
不審者情報が回ってきたのはつい先日。観光客とも思えぬ見知らぬ男が、何かを物色するように辺りをうろついていたというが、1人が目撃しただけで、あとは誰も見ていない。
この辺りは知っている家が多いし、危険だと判断したら近くに助けを求めることは可能だ。
なだらかな坂道で土を踏み締め、辿り着いた神社の前で立ち止まる。
じりっと照りつける太陽を、笠木で隠すようにして仰ぎ見ると光芒が見えた。
昼過ぎの強い日差しに、額からツッと汗が滴り落ちる。
「ふ〜」
額を腕で拭い、鳥居の右下に移動する。汗で張り付いた半袖シャツの襟に指を引っ掛けて風を送り込むと、大きく息を吐き出した。
その場でゆっくり一礼すると、動作でズレたリュックを持ち直し、神社の鳥居をくぐった。
「この季節は、そんなに落ち葉もなくていいな」
鳥居から続く外周は綺麗に植樹された木々が立ち並ぶ。外から中は見えにくいが、それが神聖な領域を作り出しているように感じて好きだ。狭い神社とはいえ、外周からは少し距離がある。この時期ならば、そこまで落ち葉が石畳に降り積もる事はない。
参道の石畳と並行しながら外側を歩き、掃除ポイントを確かめながら狛犬の前まで辿り着いた。
台座に蜘蛛の巣がない事を確認した私は、石畳に足を踏み入れ、狛犬の間を慎重に1歩進む。境界線を越える、お兄ちゃんと私の小さい時にした儀式だ。鳥居が1の線、狛犬が2の線。1の線を潜ると神社の聖域に入り、2の線を潜ると私たち兄妹は最強になるという遊びの延長だが、今もその時の癖が抜けない。
狛犬の間を通り抜けるとさらに右に進み、境内を迂回して裏に周ると、用具入れに向かう。参道の両側と違って、境内の裏は鬱蒼と木々が生い茂る。御神木のような太い幹の木もあれば、いつの間にか自生したひょろひょろの木もある。無人になったからかもしれないが、昼間でも曇っていると薄暗い。
その薄暗さからか、小学校に上がる前までは、夕方5時以降に鳥居を潜ってはいけない、餓鬼が出て地獄へ引きずっていかれるぞと親に脅されており、それを本気で信じていた。
「ほうき、ほうきっと」
埃っぽい木の扉を開くと、箒を手に取り、上段に乗せられているチリトリを、背伸びしながら取った。
「もうちょっと、身長伸びないかな」
中2だしもう少しくらいは伸びてくれると信じているが、両親の身長を考えると期待薄だ。
軽く息を吐くと、切り替えるように箒を自分に引き寄せ、胸に抱くように持つと、目を閉じて口を開いた。
「箒神様、今日もよろしくお願いしますね」
兄には笑われる行為だとしても、私はこの儀式をやめなかった。箒神は出産のおまじないで使う道具だと兄は言う。掃き出すって言葉が、お産を意味するのだとか。
でも私は祓い出す感覚で箒を使う。だから、悪いものがいなくなるように、掃き出せますように、そう願いを込めて箒神に祈る。
もちろん、自分にそのような能力があるわけではない。ただ気持ちの問題で、そう思って掃除をすると、達成感が倍増するってだけだ。
「さぁ、やるわよ〜」
気合を入れるために声に出す。それを合図にしたように、ミンミンゼミが、次いでアブラゼミが鳴き始め、いつの間にか大合唱になっていた。
「ちょっと前までヒグラシが鳴いてて涼しげだったのに」
初夏にはヒグラシ。夏が本格化するとその他の蝉。幼い頃から慣れ親しんだ夏の音だ。
蝉の合唱を聞きながら、参道の石畳を掃き始める。鳥居の手前から拝殿に向かって進めていると、奥の方に違和感を感じて手を止めた。
「ん?」
用具入れとは逆の方だ。陽炎のようなモノが見えた気がするが、あまり明るくない場所でそんな事ある?。木々に隠れてよく見えないが、角度を変えても無くならない。
目の錯覚か、あるいは……
「まさか、不審火?」
人の気配はないが、誰かの捨てたタバコか、花火の始末が悪かったのか、燻っていた火が燃え始めたら大変だ。
再び用具入れに早足で向かい、バケツを手に取ると水道口に向かう。手水舎などとうになくなっているが、掃除用に水が出る蛇口が裏手にある。半分くらい水を入れると、急いで目的の場所に向かった。
「あの木の、裏?」
近づいてみてギョッとした。思わず眉根を寄せて、足を止めた。
うっかり近寄ってはいけない、アレかも。
前からこっちの方に1つあったし。でも、アレは陽炎みたいに見えた事がない。
そう思い至った瞬間、美卯はバケツをその場に置いて箒を取りに戻る。
「箒神様、お守りください」
ぎゅっと箒を抱えてバケツまで戻ってきた。
その全貌を隠している、手前にある大きな木の影から覗くように顔だけ出す。
「……ひっ……っ……く……」
黒く揺らめく、あれは女だ。制服みたいに見えるし、高校生くらいかな。
女子高生が涙を流しながら静かに泣いているように見えた。その木に黒い鎖で縛り付けられていて、動けないようだ。
「黒いグルグルのいた木だ」
やっぱり、と思った。
近寄ってはいけない、アレがいた木だ。大人の身長くらいのところに、特徴的な瘤があって、その下にへばり付いていたのを覚えている。でも、今は瘤の下に何もない。その代わりに、鎖で縛られて泣いている人がいる。
どうしようと思って、しばらく様子を伺っていたが、だんだん可哀想になってきた。
泣いているだけで、こちらを見ようともしないその様子は、いつも見る白いのと近しいものを感じる。
「なんか、他の黒いヤツと感じが違う」
こんなに若いのは見た事がないから?
白いのは総じて、黒いのと違って嫌な感じがしない。その理由は、意志の有無だ。
神社に来る前に声をかけてきたおばあちゃんの畑には、一昨年亡くなった佐々木の白いおじいちゃんが立っている。何をするでもなく、鍬を杖代わりにして、ただそこに存在している。
黒いのも、時々似たようなものがいるが、ぼんやりしているなと思って近づいたら、引っ掻いてきたり、悪戯されそうになったりして危険だ。ゆえに見極めるよりも危険を回避するほうが重要だと、これまでの経験から学んでいる。
だがこの女子高生からは、悲しみの感情が強烈に出ている。決して声を荒げたりしていないのに、深く、深く、でも静かにその悲しみを訴えているように見えた。
こんなにも多くの情報を、アレから感じることなんてないのに。
それでも解けない警戒心から、私はじっとその場で考えていた。