それにしては年増
鬼が出るか蛇が出るか。どうせ外国人だろうと高をくくっていた香澄だったが、その実、鬼ヶ島の入り口までたどり着いた彼女の前に現れたのは鬼──のコスプレをしたように見える一人の男だった。
しかし目を凝らすうちに、そう片づけるにはどこか釈然としないものがあった。背は高い。香澄が見上げるくらいだから、一八〇センチはあるだろう。身体は細く、足が長い。赤みを帯びた肌に、前髪をきっちり中央で分けた下から覗く一本の角。角の生え方も、肌の質感も、作り物にしては妙に馴染みすぎていた。
顔立ちは、どこかで見たような気がした。だが、記憶をたどっても誰にも繋がらない。どこにでもいそうで、どこにもいない──そんな矛盾を孕んだ印象だった。
感情の読み取れない目つきに、口元の線は静かすぎて不気味なほどだった。怒っているわけでも、興味を持っているふうでもない。ただ、ひとつの事実として香澄を見つめている。そんな視線だった。
「何用だ」
低く響く声に香澄は一瞬たじろいだが、すぐに営業スマイルを浮かべ直した。
「ええと……ここへ行けって言われまして」
香澄は男の角をまじまじと眺めながら答えた。そして、内心で「外国人じゃないのかよ」と思った。もしかしてコスプレをしているせいで村八分になったのか──あくまで「鬼」の線を考えない香澄は、まるで取引先の施設警備員と話すような態度で会話を続けた。
「誰に」
「村の人?……です」
「随分漠然としているな。お前も生贄か?それにしては年増だが」
男は香澄を頭からつま先まで、無遠慮に眺め回した。値踏みするような視線に、彼女は一瞬むっと眉をひそめた。年増?あんた何歳のつもりで言ってんのよ。そう言い返したい気持ちをぐっと飲み込み、香澄はかろうじて営業スマイルを保った。
恐怖心よりも先に、反抗心が胸の内側に広がっていた。まるで商品でも見るようなその目つきが、じわじわと彼女の神経を逆なでする。
「生贄…………たぶん?」
「多分ってなんだ」
「あー、あまり説明してもらえなかったので。でも多分、生贄で合ってると思います、ハイ」
彼女は営業トークのような明るさを装って応えた。その口調は軽やかだったが、どこか空回りしていた。少し喋りすぎたかも、と自分でも思いながら、それでも愛想笑いを崩さずにいた。
男の眉間に皺が寄る。苛立ちを隠す気など最初からない彼は、香澄の言葉を聞いて一瞬だけ動きを止めた。そして、再びじろじろと彼女を見つめ直した。
「お前は馬鹿なのか?何だその態度は。生贄の意味を分かっているのか」
彼の視線が、また香澄を頭の先から足の先まで舐めるように滑っていく。その態度に香澄は笑顔を貼りつけたまま、内心で「はあ?」と眉をひそめた。
「帰れ」
ため息と共に吐き捨てるような言葉に、彼女は思わず聞き返した。
「えっ」
「生贄などいらん。帰れ」
鬼は同じ言葉を繰り返した。その声音には決定的な響きがあり、もはや議論の余地など微塵もないことを告げている。香澄は言葉を失った。先ほどまで胸の奥にくすぶっていた反抗心は、冷たい風に吹き飛ばされたように容易く散っていく。
帰れと言われても、帰る先がどこかはっきりしない。足元には確かに、来た時と同じ岩場の細い道が続いている。それでも、その先──本土があるはずの場所は、白く霞んで何も見えなかった。
「いや、それは困ります」
香澄は気づけば声を上げていた。ビジネスの現場で理不尽な要求を押し返す時と同じ、少しだけ力のこもったトーンだった。腹の底から出た声ではなかったが、逃げ出す代わりに前へ出るための、せめてもの一手だった。
「は、?」
調子が狂う、とでも言いたげな鬼の顔。赤みを帯びた額に深い皺が刻まれ、黒く鋭い瞳が香澄を射抜くように見つめた。彼の表情には明らかな戸惑いと困惑が浮かんでいた。
それもそうだ、生贄は必要ないと言われて安堵する人間はいても、その逆はいない。否、過去に数名は「それで村が襲われては困る」と涙を流しながら訴えた奴はいたが、少なくとも命が助かることに一縷の望みを見出していた。この女のように、厚かましくも図々しい態度で「困る」などという者はひとりもいなかった。
鬼の目が微かに細められ、香澄という女性の正体を見極めようとするかのように、その全身を改めて観察した。薄暗くなる入り口の空間で、二人は奇妙な対峙を続けていた。
「お前の都合など知らん」
「いやいやいや、私は拉致されてここに連れてこられて、帰り方も分からないんですよ」
「それが俺になんの関係がある」
香澄は「確かに」と一瞬納得しかけたが、すぐに「いや待てよ」と思った。それで終わらせていい話じゃない。そもそもこの状況に至った原因は誰なのか。そもそもこの状況に至った原因は誰なのか。心の中の怒りが徐々に表面へと湧き上がってきた。
「生贄捧げられるようなことしてるからでしょ!?それがなければ私、こんな目に遭ってませんから!その角とか、怖がられて当然のビジュアルじゃないですか? 昔の人たちは迷信とか信じやすいんだからやめてあげてくださいよ」
「びじゅ、?」
男はその奇妙な言葉の意味を探るように、唇を少し開いたまま香澄を見つめた。
「それとも何か悪さでもしてるんですか?いい歳して……」
「生きていくためだ。それこそお前には関係ないだろう。いいから早く帰れ。本当に殺されたいか」
その言葉は低く、そして威圧感を持っていた。彼の姿勢が変わり、それまでの会話とは明らかに異なる緊張感が場を支配する。香澄は思わず後ずさった。男の気迫が本当に殺しかねないものだったからだ。
殺気など現代日本で感じることなどまずない。忙しいオフィス、混雑した電車、煩わしい人間関係。それらは確かに息苦しいものだが、命の危険を感じるものではなかった。本能的に「やばい」と感じ取ったが、それでもこの状況を打破する必要があった。
「いやでも本当に困るんですって!」
困窮した香澄は、切羽詰まった表情で「タダでとは言いませんから!」と慌てて鞄の中を漁った。彼女の指先が焦燥に震えながらも鞄の中を必死に探っていく。とは言ってもそこに入っているものは化粧ポーチに財布、スマホ、名刺入れ──現代の女性の日常を象徴する品々だった。
そして奥の方で、包装がくしゃくしゃになったソーダ味のキャンディを数個見つけた。指先に触れた瞬間、香澄の目が光る。これだ!と思わず声を上げそうになるのを抑えながら、香澄はすかさずキャンディを取り出して、男に差し出した。
「これ!これあげるから!この時代じゃ珍しいんじゃないですか!?」
その声には必死さのなかに、どこか営業トークのような軽やかさが混じっていた。命がかかったプレゼンテーションだというのに、香澄は妙に冷静な目をして、鬼をまっすぐに見つめていた。
「……なんだこれは」
鬼は訝しげに首を傾げ、香澄の手の中の小さな物体に目を凝らした。その目には警戒の色が浮かびながらも、それを凌ぐ興味の光があった。
「飴です、飴! 舐めてみてください! ちょっとシュワってしてて、すっごく美味しいですから!」
「ふん、どうせ毒でも入っているのだろう。仇やらなんやらと報復にくる奴らもいるからな」
男の声には、疑念と諦めが入り混じっていた。じっと飴玉を見つめたあと、その視線はゆっくりと香澄の顔へと移る。彼女の表情を慎重に読み取ろうとするかのように、まなざしが細く鋭くなる。その目つきに、香澄はほんのわずかに考え込み、そして何かを思いついたようにふっと顔を上げた。
「あー……じゃあ、こういうのはどうです?この中から二つ選んで、一つは私、もう一つはあなた。お互いに同じものを食べるってことで」
その声には、さっきまでの動揺が嘘のように消えていた。恐怖よりも、取引をまとめようとする集中力が勝っていた。ビジネスの現場で磨いてきた瞬発力が、いつのまにかこの世界でも香澄の武器になっていた。
男はほんの一瞬、言葉を失った。女が交渉を持ちかけてくるなど、この時代では珍しい。しかも堂々と、まるでそれが当然かのように。
「悪くない」
男はにやりと笑ってそう言うと、香澄の手から三つの飴玉すべてを受け取った。包みの上から軽く押してみたり、光にかざしたりしながら、一つずつじっくり見比べていく。やがて二つを選び出すと、そのうちの一つを香澄に差し出した。
「これをお前に。もう一つは俺がもらおう」
そう言って残る一つ――選ばなかった最後の飴玉も、香澄の手にそっと返した。
香澄は小さく頷くと、指示された方の飴の包みを手早く破って口に放り込んだ。ほんのりとした甘さと微かな炭酸の刺激が舌の上で広がる。
鬼はその様子をじっと観察した後、少し間を置いて、自分の飴の包みを丁寧に剥がし始めた。慣れない手つきで包みを開き、香澄を一度ちらりと見てから、意を決したようにそれを口へ運ぶ。
「……!」
その瞬間、彼の目がかすかに見開かれた。舌先に触れた清涼感と甘さに、思わず表情がほころぶ。角のある額に寄っていた皺がわずかにゆるみ、常に無表情だった口元が、知らぬ間にやわらかく緩んでいた。まるで、生まれて初めて甘いものを口にした子どものように。
「これは……何という味だ?」
「ソーダです。炭酸水みたいな……あ、この時代にはないか。爽やかな水の味、といえばいいでしょうか」
自分でも説明しながら微妙だと思ったが、鬼は黙ってうなずいていた。その様子に、香澄は心の中でほっと息をつく。どんな時代だろうと、人は甘いものには弱いらしい。
「まだあるか」
不意に問われ、香澄は肩をすくめるようにして鞄の中を探った。手探りで袋の底まで指を伸ばす。
「ええと……あと二つだけ、です」
鬼は返事をせず、沈黙したまま視線だけを落とした。その無言の間に、香澄は考えるより先に口を開いていた。
「あっ、でも! ここに招いてくれたら、私、作ります! 材料さえ揃えば、たぶん……いや、絶対!」
勢いで言った。根拠は薄い。だが、香澄の脳裏にはあの二人の顔がよぎっていた――ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズ。彼らだって製品が完成する前に営業していたじゃないか。OSやiPhoneを完成させることに比べれば、飴を作るくらい簡単だろう。べっこう飴なら小学生の頃に作ったこともあるし、とその程度の記憶を根拠に、香澄は自分を鼓舞した。
「……いいだろう、着いてこい」
「ありがとうございます!! お邪魔します!!」
営業成績トップを取った時ですら、こんなに高揚したことはなかった。これはもう、この世界での初受注と言っていいかもしれない。