気まずい気分はTikTokのように流れていく
黙ってちゃだめだ。何か言わないと。
気まずいっていうのは、こういう瞬間のことをいうのだと、生まれて初めて知ったかも。こんな時は、人間、手を握ってしまうものなんだ。なんだか、握った手がペタペタする。何か言おうと思うけれど、私は棒立ちで、シューズの底とテラテラした床が接着しているような、身動きのとれなさに、おののいていた。
これまでにもいろいろと気まずい経験があったと思っていた。だけど、それはまだ人生っていうものがわかっていなかった頃のことだったのだ。
「ごめん・・・。立ち聞きした・・・。ていうか、あのメモも、盗み見した・・・。」
絞りだしたことが、これか。自分で言ってても情けなくなる。不誠実な単語の連続だ。
胸の中から、腹の中から、喉から・・・とにかく乾いたところから汁をしぼりだすように言葉を発した私の前で、あっけらかんと航が言った。
「姉ちゃん、突然、出てくるんだもん。ほんと、驚いた。ぼちさんの名前、朝、教えてくれればよかったのに。ほんと、あせったわぁ。」
あっけらかん。
明かりのついていない廊下は、ずいぶんと暗くて、よく見えないけれど、絶対に笑っている。
航は、いつも笑っている。
こいつがカマチさんを呼び出したって、わたしには関係ないことなのに。
なぜ、ここに来たのだろう。冷静になると、自分の行動に説明がつかない。けれども、ここへ来ることが、最初から当たり前だったように、私は、いろいろな算段をつけて、ここへ来た。何が、わたしにそうさせたのか。
「ほんと、ごめんね。もう、ほんと、ダメダメだ。う~ん。」
え、なにがぁ、そんな謝られることあったっけ。
あるだろう、私は盗み見の盗み聞きの待ち伏せ野郎だ。
「ほんと、ごめんね。じゃ、私、練習の続きあるから、行くわ。つづきは・・・、えっと・・・、家で。」
胸いっぱいの後悔に無理矢理に蓋をして、踵を返して隠れていた教室に戻った。
どうか、ついてきませんように。
「うん。練習、がんばってね。」
航が走り去る軽い足音が聞こえた。
教室の壁にもたれかかって、私は深く息を吐いた。
いつも何かに夢中で、忙しく走っているんだよね—。
無理して走っている私とは違う。そう思うこと自体に削られることの苦しさに、だんだん慣らされているけれど、それでも、私の中の、いつも追い立てられているこの気持ち。
教室の中をグラウンドの夜間照明が青白く照らし始めていた。
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カマチさんに断られなかったのは、奇跡だと思う。ユイちゃんが出てきたのには驚いたけれど。
姉と別れて走り出した僕は、そろそろいいか、と走るのをやめた。生徒会室へ入ったら何て言おう・・・と考えながら、渡り廊下を歩き、階段を上り、角を曲がったところで、廊下も教室も暗いことに気がついた。
生徒会室の前には、副会長の村田さんが、僕の荷物を持って立っていた。
「今日、みんな時間がないからって解散になって、鍵かけちゃったから。」
「すみません、先輩。え~、僕のために待っててくれたんですね~ありがとうございます。」
テンション高めで、ひたすらお礼を言いつつ、にこやかに荷物を受け取る。おいおい、交渉の結果とか、気にならんのかい!と思うが、それを村田さんにぶつけるような僕ではない。
「塾がないの、私だけだから。」
僕のテンションに影響されることなく、村田さんの温度は低い。
村田さんは、きれいな人なのに、わざと、そう思われないようにしているのでは、と思う時がある。
強くて、ぴしゃりとした物の言い方や、太めの黒いフレームの眼鏡にごまかされるけれど、細い顔に、細い鼻筋、切れ長の二重の目、薄い唇。背が高くて、長めのスカートが違和感なく感じるスタイルの良さだ。
しかも、村田さんは、成績も優秀らしい。塾へ行っていないのは塾が必要ないからだ、と会長が村田さんがいないときに言っていた。
ずるい・・・と。いや、そこは、うらやましいの間違いだろうと思ったが。
「村田さんも、駅ですよね。一緒に帰っていいですか。」
ここは、一緒に帰りませんか、ではなく、一緒に帰っていいですか、が正しい。
村田さんは嬉しそうでも嫌そうでもなく、ただただ無機質に「いいけど」と言って、生徒玄関に向かって歩き始めた。
「それで、キャラクターの件なんですけど。来週、描いてくれる人に来てもらうことになったんですよ。」
僕は調子よく村田さんに話しかけた。返事待ちだけど、たぶん大丈夫。カマチさんは、絶対に、来るだろう。
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「じゃ、セクション練、始めます。10分だけだから集中してね。」
集合時間の3分前には、全員が集まって、譜面台を立ててスタンバイしていた。遅刻は、人の時間を盗むことになるというパートリーダーの教えは、ここでも行き届いている。
パートリーダーのナナセは、今日は塾の日なので早く帰った。ナナセがいないときは私が代役を務める。コンクールのパートが決まったら、たぶん1stのセクションリーダーは私になる。
航が入学して、私は朝練に出るようになった。それから、吹奏楽部での周りの評価と、本当の自分が、どんどん離れていっている。
「田中さん、やっぱりすごい。こんなのスラスラ吹けちゃうって、ありえないですよ。」
「部活に青春、かけてますよね。クラリネット命っていう感じ、尊敬します。」
お世辞かもしれない。えっと、古い日本語だと“おべんちゃら”って言うんだっけ。
1年生になめられてない、っていうのは、正直、ホッとするけれど、私の青春を勝手に部活にかけるのは、やめてほしい。
けれども、さっきまでの、どこへも持って行き場のない気持ちが、楽器を吹いている間だけは、消えていた。
片づけている間に、また嫌な気持ちが戻ってきたけれど、なんだか、ちょっと前に比べて、全然、大したことじゃなかったような気がする。
これってクラリネットに魂を吸い取られているのかもしれない・・・。半ば本気でそう思う。
あぁ、でも、家に帰ったら、あいつに何て言おう。
そう思っても、さっきほど苦しくない。会わないように、すぐに自分の部屋へ行ってしまえば、なんとかなるような気がする。
真剣に楽器を吹いた後の高揚感は、私に不誠実な勇気をもたらしている。
とはいえ、自分のやらかした不誠実が薄くなっていることは、やはり、不誠実だと、胸の隅っこに残っている頑固な私がため息をついたとき、ふと思いついた。
明日、カマチさんに、何か言わなくちゃいけないかな・・・。
考えてみれば、カマチさんにボッチを宣言したことのほうが重罪なのではないか。
いつの間にか、いろいろなことを踏みにじりながら過ぎている自分の時間に、これも現代社会におけるTikTokの悪影響なのではないか、などと言い訳を思いつく自分が、末恐ろしい。




