「できすぎるおとうと」の密会をスパイする
4時50分になった。あと10分。
「今日は、これから個人練にします。明日の合奏に備えて、課題曲のTrioのとこ、ピッチ確認しておきましょう。ファーストさんは6時10分前に此処に戻ってください。」
我ながら自然な流れだと思う。
「田中先輩、うちのクラスのタナカコウって先輩の弟さんなんですか。」
譜面台をたたみながら、吹奏楽強豪校出身のユナちゃんが言う。
「え、そうなんですか!」
隣で楽器の中にスワブを通していたココロちゃんが激しく反応した。
ココロちゃん、楽器が机に当たりそうで危ないよ。全身からほとばしる盛り上がりは、その後に続く迷惑を予感させる。
家では何て呼ぶんですか・・・どんな音楽聴くんですか・・・好きな食べものって・・・。
「はいはい、しゃべってないで移動、移動。個人練は大事にしてねぇ。この一秒が音色を決める!だよ。」
さっさと立ち去るに限る。左手に楽譜と譜面台、右手に楽器を持って音楽室を出た。
4階の教室は練習に使ってはいけないことになっているから、ここには誰も来ない。
第一特別教室の前を通り過ぎて、隣の教室へ入った。
キラキラした壁にアルミサッシの影が斜めの格子を作っている。
窓に近づくと、西の空がセミノールの色だった。その上は薄い水色で、その上は濃くなって、真上を見上げると真っ青の空まで、半球のグラデーションだ。
美しさに一瞬、なんでここに来たのか忘れそうになる。
誰もいない教室を見渡した。ここで楽器吹いたら、バレちゃうよね
廊下から見えないところ、っと。
入り口の戸の陰に隠れたとき、近づいてくる足音が聞こえた。
カマチさん・・・。
シューズが大きいのか、カマチさんが歩くとボコッ、ボコッと音がする。足音は特別教室の前で止まった。
4時57分。
カマチさんが時間よりも早く来るって、それって、よっぽどのこと。
歩く時もそうだけれど、カマチさんが何かを早くすることはない。体育の時だって、身長順に先頭で走り始めて、どんどん抜かれて、最後はいつも最後尾になる。
カマチさんは今、どんな顔で立っているんだろう。
のぞきたい・・・。けれど、偶然こっちを向いていて目があったら・・・。
カマチさんならあり得る。
なぜ、航がカマチさんを呼び出すのか。
まだ航だと決まったわけではないけれど、私は、今日渡した伊勢丹の袋と関係があると思っている。
あのルーズリーフは、どうみても手紙だった。あんなイタい通信手段を使う高校生が存在するなんて信じられないし、もっと信じられないのは、それをやってのけたのが自分の弟かもしれないってこと。
でも、あの大きくて伸び伸びして、それでいて完璧に整った字は・・・
間違いなく、航だ。
真面目に練習するわけでもないのに、私たちが通った近所の書道の先生はベタ褒めで
「コウちゃんには才能がある。私の師匠に紹介したい。」と、航を自分の恩師だという有名な先生のところへ連れて行った。
字もきれいね・・って母の友達も口々に言う。字も、ってことは、他に何がきれいなんですか、おばさん?
最近、航のことを考えると、もやもやする。
航とカマチさんは知り合いなんだろうか。
いや、違うかも。だって、ほら、航は「ボチさんって人に渡して」って言った。
○○って人、っていう言い方は、その人のことをよく知らない証拠。
しかも「ボチさん」。たぶん読み間違えたんだよね、カマチさんの字はなかなかに野性的だから。
5時5分。
カマチさんが、ボス、ボスとつま先で蹴る音がする。
D♭だ。
きっと、中庭に向かって手すりにアゴをのせて立ってるんだろうな。
カマチさんは背が低いから、手すりに顔を載せてるみたいになってるはずだ。
教室の中に居場所がないときに、よく、そうしている。
ふぅ、って鼻息だか、ため息だかわからない音も聞こえる。
B♭だ。
このまま誰も来なくて、誰かが物陰からカマチさんのことを見ているのではないだろうか。そしてまた、ぼっちが・・、ぼっちのくせに・・って薄ら笑いながら言うんじゃないだろうか。
そんな疑いが心の中にわいたその時、遠くから階段を駆け上がる音がして、そしてそれは滑らかに廊下を走る音に変わって、それに重なって大きな声がした。
「せんぱ~い、すいませ~ん、遅れました~。手紙、僕だってわかりましたぁ?」
なんの屈託もない弟の声。
校内で聞くのは、初めてだ。




