胡蝶、池上水連と打ち解ける
「はぁ、いい湯加減だわ」
広大な森を臨む露天風呂に浸かりながら、胡蝶はこれからのことを考えていた。
――なんだか、水連さんに避けられているような気がするわ。
あれから、彼女を見かけるたびに声をかけようとするのだが、「申し訳ありませんが、忙しいので後にしてください」と取り付く島もない。ならばと思い、虎太郎に彼女のことを訊ねようとすると、「本人に訊けないことを俺に訊くな」としまいには怒られてしまった。
――私、空回りしているみたい。
自分がこの旅館に来てからというもの、虎太郎と水連の仲もギクシャクしているようだし。
これでは応援するどころか、邪魔をしているも同然である。
――……お節介も度が過ぎると嫌われてしまうと、お琴さんにも注意されていたのに。
胡蝶は自己嫌悪で落ち込んでいた。
遠くで滝の流れる音が聞こえる。
透明だったお湯がいつの間にか美しい緑色に変化していることに気づいて、胡蝶は「まあ」と感嘆の声を上げた。
「ここは本当に綺麗な所ね」
一人ぽつんと温泉に浸かって、美しい景色を眺めているうちに、
――もう、家に帰りましょう。
自然とそう思えた。
これ以上ここにいたら、きっと二人に嫌われてしまう。
それだけは嫌だった。
――そういえば、あの人はどこへ行ったのかしら。
黒須七穂、同じ旅館に泊まっているはずだが、ここへ来てからは一度も顔を合わせていない。
いっそ黙って一人で帰ってしまおうかと考えていると、
「お隣、よろしいですか?」
はっとして振り返れば、そこに水連がいて、胡蝶は息を飲む。裸だからか、それとも髪の毛をおろしているせいか、一瞬だけ誰か分からなかった。ほっそりとした身体に青白い肌、彼女の髪の毛は足首に届くほど長く、濡れて艶めき、まるで生きているようだった。
水連は胡蝶の視線に気づくと、手早く髪の毛をまとめて、簪をさす。
「ええ、どうぞ。私はもう上がりますから」
慌てて立ち上がろうとすると、水連は不思議そうに首を傾げて、
「私に何か、お話があったのではないのですか?」
「……ええ、でも、水連さんはお忙しいようなので……」
「女将さんに頼んで、長めの休憩時間を頂きましたので、今でしたらお話ができます」
どうやら避けられていたわけではないらしい。
むしろ向こうから近づいてこられて、胡蝶のほうがドギマギしてしまう。
花ノ宮家では女中に髪の毛を洗ってもらったり、背中を流してもらったりすることもあったが、こんな風に誰かと一緒に入浴するなんて初めてのことで、女同士とはいえ、緊張してしまう。
「でも私、水連さんに不躾な質問をしてしまうかもしれません」
「お兄様が悪い女に騙されていないか、心配しているのでしょう?」
至極真面目な顔で水連は切り出した。
「だから居ても立っても居られず、この旅館へ来られた」
「……水連さんは、私とは話をしたくないのだと思っていました。どうして急に心変わりを?」
「虎太郎さんが、貴女のことをとても大切に思っていらっしゃるようなので……」
ため息を吐きつつ、彼女は答える。
「それに、正直に言えば困るんです。いつまでも貴女にここにいられると。仕事になりませんから」
グサッとくる一言だったが、胡蝶は反省してこの言葉を受け入れた。
そんな胡蝶を見、水連も申し訳なさそうな顔をする。
「私の言い方が気に障るようでしたら申し訳ありません。私は虎太郎さんのようにうまく人と接したり、喋ったりすることができません。自分の感情を説明するのも苦手です。そのせいで、周りから誤解されてしまうことが多々あります。ですから、知りたいことがあれば、お嬢様のほうから質問なさってください。私はそれに答えます。それでいかがですか?」
ああ、この人はとても生真面目で嘘がつけない方なのだと、胡蝶は微笑んで頷く。
「でしたら、質問させて頂きます。答えたくない質問には答えなくても構いません。ご結婚は?」
「二度結婚して、二度とも夫と死別しています」
正直に答えてくれたものの、暗い顔をする水連を見、一方的に質問するばかりではいけないと思った胡蝶は、
「実は私も、一度結婚して、離婚後に夫を亡くしましたの」
自身の事情も打ち明けた。
すると水連も気の毒そうな顔をして、「まあ、お嬢様も?」と驚いた声を出す。
「18の時に結婚して、19の時に離縁されましたの。愛情のない見合い婚でしたけれど、夫が死んだと聞かされた時はショックでしたわ」
「どうして離縁されたのですか?」
「私の態度に問題があったからかもしれません。夫はいつも、私に対して怒っていましたから」
包み隠さず、当時のことを思い出しながら水連の質問に答える。
すると水連も、「私も」と口を開いた。
「二度目の結婚では、夫に怒られてばかりいました。私がいつも上の空だと言って……」
苦い笑みを浮かべながら、続ける。
「死んだ男のことをまだ引きずっているのかと、何度も責められました」
「……愛しておられたのですね、最初のご主人のことを」
水連は切れ長の瞳を潤ませて、こくりと頷く。
「優しい人でした。私にはもったいないくらい……いい人だったんです。あんな人にはもう二度と出会えないでしょう」
それほどまでに愛していたのだと、胡蝶は理解した。
そして今もなお、彼のことを愛しているのだと。
しんみりとして黙っていると、
「虎太郎さんはそれでも構わないと言ってくれました。私の気持ちの整理がつくまで待つと、言ってくれたんです。私はそのことがとても心苦しくて……私は悪い女なんです、お嬢様」
途中から耐え切れないといったように水連は胡蝶を見た。
「虎太郎さんに気を持たせるようなことをして……今だって、返事を先送りにして彼を引き留めている」
どこか苦しげな表情を浮かべる水連に、胡蝶は胸騒ぎを覚える。
「どうしたの、水連さん」
「お嬢様、今すぐ虎太郎さんを連れて、家へお帰りください。私が間違っていたんです。あんないい人を騙すなんて、私にはできない」
どこか慌てた様子の水連に手を引かれて、立ち上がりかけた胡蝶だったが、
――痛っ。
何かに足首を噛みつかれたような痛みが走り、驚いて下を見る。
温泉の中に蛇がいた。
咄嗟に逃げようとした胡蝶だったが、毒の回りが早く、その場に崩れるようにして座り込んでしまう。
「お嬢様っ」
胡蝶が溺れないよう支えながら、水連はお湯の中に向かって怒鳴る。
「兄さんっ、この人は巻き込まないと約束したはずでしょ」
『そんな約束、した覚えはない』
どこからか、不思議な声が聞こえる。
水連が誰かと喧嘩しているようだ。
「私を騙したのねっ」
『よく言う。僕を裏切ろうとしたくせに』
「この人は渡さないわよ。もちろん、虎太郎さんだって……」
『一体どうしたというんだい、水連。本気であの男に惚れたわけでもないだろうに』
「でも、虎太郎さんは私の話をちゃんと聞いてくれた……同情してくれたわ」
『同情? はっ。同情なんて、上から目線の傲慢な感情だよ。内心じゃ、人の不幸を見て楽しんでいるのさ』
「私はそうは思わない。だって雅紀さんと結婚できたのは、ご近所の人が私に同情してくれたからなのよ。彼は私にとても優しくしてくれたわ。病気の床についた時も、君は働き過ぎだと言って私の心配ばかりしていた。彼はもういなくなってしまったけれど、私の心の中でいつまで生き続ける。あの人のおかげで私がどれほど救われたか、兄さんには分からないでしょう?」
そんな水連の熱弁にも、声はただ『可哀そうに』と返すだけだった。
『でももう手遅れだよ、水連』
はっと息を飲む水連に、声は優しく響く。
『手筈通りにやるんだ。さもなければ二人は僕の毒で死ぬよ』




