胡蝶、旅館で次兄を見つける
屋台で食事を済ませ、周辺を散策してから旅館へ向かう。
そこはこじんまりとしていて、木々に囲まれているせいもあるのか、隠れ家的な雰囲気のある建物だった。
戸口から出てきた中年女性が優しい顔に笑みを浮かべて言った。
「これはお客様、ようこそお越しくださいました」
胡蝶が挨拶を返しつつ、「ここは素敵なところですね」と雑談を交わしている間に、七穂が必要な手続きを済ませて戻ってくる。
「じゃあ、姫さんの荷物はここに置いておくから。ゆっくり旅の疲れを癒すといい」
「貴方もここに泊るのではないの?」
「俺は俺でまだやることがあるんだよね。姫さんは先に部屋で休んでてよ」
「ちょっと待って。虎太郎兄さんのところへ案内してくれる約束でしょ」
しかし七穂は「ははっ」と人を小馬鹿にするような笑い声をあげると、何も言わずに行ってしまった。
怒って顔を赤くする胡蝶に、
「お荷物は番頭が運びますから、そのままで。先にお部屋へご案内しますわ」
女性が優しく声をかける。
するとまもなく慌ただしい足音が近づいてきて、一人の青年とすれ違った。
「番頭さん、お客様のお荷物は松の間へお運びして。今度は部屋を間違えないようにね」
「はい、女将さん」
その青年の顔を見た胡蝶は、たまらず甲高い声を上げる。
「虎太郎兄さんっ。こんなところにいたのねっ」
「げっ、胡蝶。お前がなんでここに……」
しばらく呆気にとられていた兄だったが、
「そっか、狐の兄さんがちくりやがったな」
頭を抱えてうめくような声を出す。
「そんな言い方ってないわ。兄さんの手紙を読んで、飛んできたっていうのに」
ああ、そういえばそうだったと虎太郎はポンっと手を叩く。
それから困ったように頭を掻くと、
「あんなん、真に受けるなよなぁ。ただのお袋に対する当てつけだよ」
「だったら嘘なの?」
「いやぁ、まるっきし嘘っつうわけでもないんだが……」
煮え切らない兄の態度に、ピンっとくるものがあり、
「だったら兄さんの片思いなのね。どこのどなたなの?」
「……胡蝶ぉ、勘弁してくれよ。お前は俺のお袋か?」
「母さんの代理で来ているのだから、似たようなものよ」
「お前なぁ、人の恋路を邪魔する奴は……ってことわざ、知ってるか?」
「私は邪魔しに来たんじゃないわ。応援しに来たのよ」
「口の減らない奴だな」
「兄さんに言われたくないわ」
二人のやりとりをきょとんとして眺めていた女将さんが、ようやく口を開いた。
「まあ、この方、番頭さんの妹さん?」
胡蝶はあらためて彼女に向き直ると、
「いつも兄がお世話になっております。柳原胡蝶と申します」
「いえいえ、虎太郎さんは大変な働き者で、こちらとしても助かっているんですよ」
好意的な女将の言葉に、虎太郎は居心地悪そうにもじもじする。
「立派にやっているのね、兄さん。安心したわ」
「まあ、番頭つったって、便利屋みてぇなもんだけどな」
ようやく部屋にたどり着くと、
「じゃあな、胡蝶。俺、仕事中だから行くわ」
さっさと荷物だけ運び入れて、虎太郎はいなくなってしまった。
「兄さんったら……」
話したいことがたくさんあったのに。
何も逃げるように去らなくても……。
胡蝶が落ち込んでいると、
「今日はお兄さんのことでいらしたんですか?」
女将さんが気を遣って話しかけてくれる。
「ええ、兄の近況が知りたくて。田舎の母が心配していますの。でもあの様子だと、何も話してくれないわ」
「単に不器用なだけですよ」
思いやりのある声で女将は言う。
「それに、母親というのは、子どもがいくつになっても心配する生き物ですし」
「でしたら……兄がこちらで働くようになった理由をお聞きしても?」
女将さんはおかしそうに笑うと、
「たぶん、あの子が原因なんじゃないかしら」
「あの子?」
「半年前からうちで働いている子で、とても綺麗な娘なんですよ」
その娘の名は池上水連といい、この旅館で女中をしているそうだ。
「ただ訳アリでねぇ、自分のことはなんにも話さないんですよ。両親を早くに亡くしたとかで、身内はお兄さん一人だけらしくて。そのお兄さんともずっと疎遠で、可哀そうな娘なんですよ。休憩時間も、いつも一人でポツンとしてて、他人に構われたくないって感じで。単に一人が好きなんだろうって思っていたんですけどねぇ。虎太郎さんに対してだけは、違うんですよ」
「違う、というのは?」
「あの子のほうから話しかけるんです。嬉しそうな顔でねぇ。虎太郎さんにだけは心を開いているみたいで、たまに食事をしに、二人で出かけることもあるんですよ」
それはぜひともその女性に会ってみたい、会わねばと思う胡蝶だった。




