胡蝶、小姑になる
「お久しぶりですわね、お琴さん……いいえ、これからはお義姉さんと呼ばせて頂きたいわ」
ずっと卯京の家を訪ねたいと思っていた胡蝶は、周囲の許しを得たことで、念願かなって兄夫婦の家に上がり込んでいた。というのも、
「お義姉さんはゆっくりしてらしてね、家のことは私がしますから」
「……病人じゃないんだから、平気だよ」
胡蝶にお茶を出すと、腹部を愛おしげにさすりながらお琴は腰を下ろす。
「妊娠したっていったって、まだ三ヶ月も経っていないんだし」
「それでも用心に越したことはありませんわ」
滞在中は少しでも義姉の役に立とうと、胡蝶は張り切っていた。
本当は母親であるお佳代がお祝いも兼ねて家の手伝いに来る予定だったのだが、まだ足が痛むというので、胡蝶が代わりを務めることになったのだ。お佳代や兄達に託された沢山の土産物を手に、戸口を叩いた胡蝶をお琴は笑顔で迎え入れてくれた。
「兄は今どちらに?」
「働きに出てるよ。お昼に顔を出すって言ってたっけ」
滞在期間はたったの七日間。
本当はもっと長くいて、兄夫婦の役に立ちたいのだが、一眞にはあまり長居するなと言われているし、お佳代や他の兄達のことも心配なので、今では仕方がないと割り切っている。
「あんたもこんなど田舎までよく来てくれたねぇ、大変だったろ?」
「途中まで一眞さんが送ってくれたので、大して疲れていませんわ」
そう言って、動きやすい格好に着替えると、
「お義姉さん、早速ですけどお台所を貸していただけるかしら」
ずっとこの家にいられるわけではないから、自分がいる時くらい、義姉には楽をしてもらいたかった。その日の晩は家から持ってきた野菜――身体を温めるために新鮮な根菜もの――を使って、大量のがめ煮と豚汁を作った。翌朝は炊きたてのご飯にじゃがいもとなめこのお味噌汁、おしんこと焼き魚、お昼用にと余ったおかずを具材にしておにぎりもたくさん作った。二人のために苦手な家事も一生懸命こなした。お琴は申し訳なさそうにしていたけれど、しきりに感謝の言葉を口にしてくれた。
そのせいで、少し調子の乗ってしまったのだと思う、
「相変わらず、胡蝶の作る飯は最高だな」
最初こそは胡蝶の滞在を喜んでくれた卯京だったが、ある時、胡蝶をこっそり呼び出して言った。
「お前、もう帰れよ」
ショックを覚えて兄の顔を見ると、彼は少し怒ったような顔をしていた。
「どうして?」
「お前がいると、お琴が落ち込むから」
訳がわからないと不思議がる胡蝶に卯京はため息をつく。
「お琴は料理が苦手なんだ。それでも必死に努力して、上手くなったっていうのに、お前の料理を食べた途端、また自信をなくしちまった」
はっと息を呑む胡蝶に卯京は続ける。
「本当は自分で作りてぇのに、お前のほうが上手いからって黙って台所を譲ってるんだ。手伝ってくれるのはありがてぇけど、お前がいると、かえってお琴のストレスになる。だから帰ってくれ」
ストレスは妊婦の大敵だ。
兄の言うことももっともだと思い、胡蝶はその日のうちに帰り支度をした。まさか得意な料理で義姉を傷つけていたとは知らず、申し訳なさのあまり涙がこみ上げてきた。
こんな顔で兄夫婦の前には出られないと思い、書置きを残すことにした。「急用を思い出したので家に帰ります。短い間でしたがお世話になりました」とだけ書いて、こっそり家をあとにする。
「胡蝶、本当に何も言わずに帰るんですか?」
家から少し離れたところで、一眞が迎えに来てくれる。
彼には落ち込んだ姿を見せたくないと思い、慌てて涙を拭った。
「ええ、いいの」
「ですが……卯京さんの言いようはあまりにも……」
おそらく自分たちの会話をどこかで聞いていたのだろう。
怒りを押し殺したような一眞の目を見て、胡蝶のほうが慌ててしまう。
「怒らないで、一眞さん。私がいけないの。さあ、帰りましょう」
この話はおしまいとばかりに胡蝶が歩き出すと、
「――ってっ、待っておくれよっ、姫さんっ」
後ろから追いかけてくる声が聞こえて、思わず足を止める。
振り返れば息を切らせたお琴がいて、ドキッとした。
「お義姉さんっ、走ってはいけませんっ」
自分でも驚くほど大きな声が出てしまう。
「転んだらどうするんですかっ。お義姉さんひとりの身体じゃないんですよっ」
お琴は驚いたように立ち止まると、胡蝶を見、ふわりと微笑む。
「そうだね、あんたの言う通りだ、ごめんよ」
再びお琴が走り出す前に、胡蝶のほうから駆け寄る。
「でも、あんたのほうこそひどいじゃないか、何も言わずに帰るなんてさ」
「それは……」
「卯京の言ったことは許しておくれよ。あんたの代わりにあたしがぶん殴っておいたから」
まじまじと彼女の顔を見ると、はにかむような笑顔を向けられた。
「落ち込んでたのは本当だけどね、あたしも悪かったんだ。あんたに遠慮しすぎたんだね。これからは遠慮せず、言いたいことを言うから、どうか卯京の言葉を信じないでおくれよ。あの人はあの人、あたしはあたしなんだから」
「……私のほうこそ、お台所を占領してしまってごめんなさい」
美味しい料理を作れば、皆が幸せになれると信じていた。
そのせいで誰かを傷つけていたなんて、思いもよらなかった。
「馬鹿だねぇ、そんな言い方されちゃあ、あたしのほうが悪者みたいじゃないか」
お琴は冗談めかして言うと、胡蝶の手をとって自身の腹部に当てる。
「この子も、あんたにはまだ帰って欲しくないってさ。あんたの作る料理、本当に美味しいもの。もっと色々作って、勉強させとくれよ」
ああ、こういう人だからこそ、兄はこの女性を選んだのだと思い、胡蝶は胸がいっぱいになってしまう。
「一眞さん、ごめんなさい、私……」
顔を向けるが、すでに一眞の姿はなく、黒い子狐が茂みに向かって走り去るのが見えた。お琴に手を引かれて家に戻ると、
「胡蝶、悪かった。後生だから許してくれ」
土下座姿の卯京がいた。
慌てて顔を上げさせると、頬がうっすら赤く腫れている。その上ひどく落ち込んでいるようなので、兄には申し訳ないが、その姿があまりにも珍しくて、ついまじまじと見てしまう。
「卯京兄さんって、本当にお義姉さんには頭が上がらないのね」
「尻に敷かれてるっていうんだろ? 悪いかよ」
その瞬間、以前お佳代が口にしていた「かかぁ天下」という言葉が脳裏をよぎり、これこそが夫婦円満の秘訣に違いないと胡蝶は納得する。
――私も見習わなくちゃ。
どこぞで一眞が寒気を覚えて身震いしていることも知らず、胡蝶は再び兄夫婦の家に上がり込むのだった。




