月より団子な元奥様
「お嬢様、ただいま戻りました」
「遅くなって悪かったな」
二人が清春と鉢合わせしなくて良かったと思いながら、三人でちゃぶ台を囲んだ。辰之助がうまいうまいと言って、二人分のカツレツを完食し、「辰につられて食べ過ぎた」とお腹をさすりながら、お佳代が食後のお茶を淹れてくれる。
「実はさっき、清春様が来られたの」
この言葉に、母と息子は顔を見合わせる。
「あたくしの不在を狙って来るなんて、なんて卑怯な……」
「お前は平気か? 胡蝶。何もされなかったか?」
すぐさま心配されて「平気よ」と笑う。
「私が元気でやっているか、心配になって見に来たのですって」
「騙されてはいけませんよ、お嬢様」
「ああ、そんなに思いやりのある亭主なら、最初から離婚なんかするもんか」
「お嬢様が田舎に引っ込んでいると知って、嘲笑いにきたに違いありません」
「泣いてすがりついてくるとでも思ったんだろう、クズが」
二人の意見を聞いて、「そうよね」と納得する。
「もう二度と家に上げてはいけませんよ」
「ああ、次に会う時は俺を呼べ。ぶん殴ってやる」
「兄さん、警官が一般人を殴ってはダメよ」
「だったら川に突き落としてやる」
くすくすと笑いながら胡蝶は言った。
「安心して。ここへはもう来ないと思うわ」
迷惑だとはっきりと伝えたし、プライドが高いくせに臆病な人だから、こちらが強気に出た途端、逃げるように帰ってしまった。もっとも自分に怯えているというより、侯爵からの報復を恐れているのだろうが。
――お父様が私のために動くことなんてないのに。
「後片付けはあたくしがいたしますから、お嬢様は少し休んでください」
「俺は風呂を沸かしてやるよ」
二人の好意に甘えて、お風呂が沸くまで縁側でのんびりすることにした。
熱いお茶をすすりながら、夜空の月を見上げる。
――月を見上げると、どういうわけかお団子が食べたくなるのよね。
中秋の名月はまだまだ先だというのに。
――お団子作りの練習、したほうがいいかしら。
コロンとした丸いお団子もいいけれど、やはり団子と言ったら串団子だろう。ほんのり甘いみたらし団子に、アツアツの焼き団子、色鮮やかな草団子に、餡子たっぷりの餡団子……考えるだけで涎が出てくる。そんな自分の姿を遠くから清春が眺めているとも知らず、胡蝶は一心に月を見上げながら、お団子のことを考えていた。
***
――俺は一体何をやっているんだ。
最初はただ、あの女の惨めな姿を見て、満足するはずだった。会うつもりなどなかったし、ましてや彼女の手料理を食べて、その味に感動するなど、あってはならないことだ。
――それなのにあの日から、いつも彼女のことばかり考えてしまう。
無邪気な笑顔に軽やかな笑い声……ふとした拍子に思い出して、胸が苦しくなる。そして縁側に座って、月を見上げる彼女は、なんと美しかったことか。おとぎ話に出てくるかぐや姫のように儚げで、今にも消えてしまいそうだった。
「清春様、どうなさったの? 最近、心ここにあらずっといった感じね」
愛人の瑠璃に呼ばれ、清春はしぶしぶ顔を向ける。
花街で人気の芸妓だった彼女を身請けしたのは二年前、大枚をはたいて手に入れた女だが、そろそろ飽きがきていた。子どもができたら妾にする予定だったが、未だに子はなく、表向きは女中として家に置いていた。
――女中としての仕事は何一つしていないがな。
とにかく金のかかる女で、事あるごとに高価な買い物をさせられた。それでも瑠璃は満足せず、嫌いな使用人をやめさせたり、部屋の内装を変えたりと、好き勝手な振る舞いをするようになった。あまつさえ、胡蝶と離縁した途端、自分を正妻にしろと言い出した。
いくら美しかろうと、学があろうと、平民は平民。
貴族である自分とは住む世界が違うと、清春は考えていた。
「ねぇ、清春様、瑠璃のお願い、聞いてくださる?」
「……いい加減にしろ」
舌足らずな声を出し、甘えるように抱きついてくる瑠璃を引き剥がして、立ち上がる。
「お前はもういらん。明日までにこの家から出て行け」
瑠璃の顔がにわかに凍りつき、続いて鬼のような形相になる。
「他に女ができたんだね、このヤリチン野郎っ」
「や、やり……」
「あたいを妻にしてくれるっていうから、あんたに付いてきたのにっ」
怒りに駆られた彼女は、近くにあった陶器の置物を掴むと、それを思い切り清春に投げつけた。
間一髪でかわしたものの、
「ば、馬鹿っ。俺を殺す気かっ」
「そうだよっ。別れるって言うんなら、あんたを殺して、あたいも死んでやるっ」
怒り狂った瑠璃に追い回され、命からがら屋敷から逃げ出した清春だったが、道路に飛び出した途端、運悪く車に轢かれてしまう。死を覚悟した瞬間、脳裏に浮かんだのは胡蝶の笑顔だった。