胡蝶、気づく
――あれからかなり経つのに、皇后陛下から返事がない。
最初はただ単にお忙しいのだろうと思っていたが、二通目、三通目と手紙を送り続けているにも関わらず、全く返事がないというのもおかしい。無視されているとしか思えない。
――何か、陛下のお気に障るようなことをしたかしら。
それとも何らかの手違いで、手紙が届いていないとか?
――こんなこと初めてだわ。
使用人は間違いなく皇宮に届けたと言っていたが、それ自体も怪しくなってくる。
――私ったら……歓迎されていないことは最初から分かっていたはずなのに。
どうして忘れていたのだろう。花ノ宮家にいる時はいつだって気を張っていたし、誰も信用できなかった。血の繋がった家族でさえ、赤の他人のように感じていた。
――きっとお姉様の仕業ね。
麗子夫人は無気力だし、異母兄のほうは自分に無関心だから、そうとしか考えられない。胡蝶は怒って自室を飛び出すと、摩璃子を問い詰めるために彼女の部屋へ向かった。
しかし、
――いない?
ノックをしても返事がないので諦めて引き返そうしたところ、ギィっと音がして、
――何もしていないのに、扉が開いた。
もしや居留守を使われたのだろうか。「お姉様、入りますよ」と声をかけて中に入る。けれど広い室内に人影はなく、窓が開けっ放しになっているだけだった。
「ああ、きっと風のせいね」
そのせいで扉がひとりでに開いたのだと思い、窓を締めに向かうと、
バタンっ。
突然、音を立てて後ろの扉が閉まった。
今度は風のせいだとは思えず、
「……誰かいるの?」
声をかけるが、返事はない。
代わりに聞こえてきたのは泣き声だった。
幼い女の子の、悲しそうな泣き声。
『怖いよぉ、暗いよぉ、早くここから出して』
声はクローゼットの方から聞こえてくる。
おそらく摩璃子が隠れていて、悪ふざけをしているのだろう思い、
「お姉様、いい加減に……」
思い切ってクローゼットの扉を開けると、そこにいたのは摩璃子ではなく、子どもだった。着物を着た、十にも満たない女の子。
『おかあさん、おかあさん』
グズグズと泣いていた子が、こちらに気づいて顔を上げる。
その顔を見た瞬間、胡蝶はぞっとして後ろに下がった。
「どうして……」
その子の顔が十年前の自分の顔と――9歳の頃の自分と、瓜二つだったからだ。
『おうちに帰りたい……おうちに帰して』
ゆらりと立ち上がった子どもがこちらに向かって近づいてくる。
恐怖のあまり声が出ず、腰を抜かして座り込んでしまった胡蝶だったが、
「嘘でしょ。あんた、見た目によらずビビリなのねぇ」
いつの間にか子どもの姿は消えていて、目の前には摩璃子がいた。
胡蝶の顔をのぞきこんで、薄ら笑いを浮かべている。
「何よ、幽霊でも見たような顔して」
「……先ほどの子は、お姉様の知り合いですか?」
「先ほどの子って誰よ。この家に子どもなんていないわよ」
あくまで惚けるつもりらしい。
胡蝶は立ち上がって、あらためて辺りを見回す。
――もしかして窓から逃げたのかしら。
けれどここは三階だ。
普通の子どもが飛び降りたら、まず助からない。
――ただの子どもではなかったら?
けれど質問したところで、摩璃子は正直に答えないだろう。
「こんなことをして、楽しいですか?」
「ええ、楽しいわ。あんたがこの家にいる限り、いじめていじめて、いじめ抜いてやる」
まったくこの人は……と呆れて言葉も出てこない。
「今後は黙って人の部屋に入らないことね。さもないと、次はもっと恐ろしい目に遭うわよ」
摩璃子に正面からぶつかるのは得策ではないと考えて、胡蝶は仕方なく部屋を出た。けれど自室には戻らず、まっすぐ麗子夫人の部屋へと向かう。
「遅くなって申し訳ございません、ご挨拶に参りました、胡蝶です」
おそらく入室を断られるか、無視されるだろうと、ダメ元でノックしてみたところ、
「……お入りなさい」
弱々しい声で返事があった。
意外に思いながら部屋に入ると、そこには、頬がこけてげっそりした麗子夫人の姿があり、胡蝶は驚きを隠せなかった。気落ちしているとは聞いていたが、まさかここまでとは――。
「ずいぶんとお疲れのようなので、出直して……」
「変な気遣いはよしてちょうだい」
麗子は不機嫌そうに答えると、
「それより先日、皇后陛下のお茶会に出席したそうね。そこで何を話したのか、誰が出席していたのか、詳しく教えなさい」
「それが、よく覚えていないんです。途中で気分が悪くなって、中座してしまったものですから」
「まあ、そうなの? 相変わらず役に立たない子ねぇ」
見た目は病人でも、口の悪さだけは健在のようだ。
「お元気そうで安心しましたわ」
「車椅子生活の女に向かって、よくそんな嫌味が言えるわね」
こういうところはやはり親子だなと、摩璃子を思い出して苦笑してしまう。
「そういえば、この屋敷で子どもを見かけたのですが……」
「子ども……」
直後、麗子はビクッとしたように肩をすくめ、怯えたように顔を隠す。
「何か、知っているのですね」
「い、いないわよ。この屋敷に子どもだなんて」
嘘はついていないが、何かを隠しているような口ぶりだった。
それにしても、麗子夫人がここまで怯えるのも珍しい。
「お父様が関係しているのですか?」
「なんでここであの人が出てくるのよ」
「でしたら伊久磨お兄様のほうかしら?」
思わず、考えていたことが口に出てしまったらしい。
伊久磨の名を聞いて、麗子はさっと顔色を変える。
「あの子の名を気安く口にしないでっ。卑しい、妾の子の分際で――っ」
こんなことを言われて、悲しかったし、怒りも感じた。
けれどそれ以上に気になったのは麗子夫人の態度だ。
「伊久磨に近づいたら許さないからっ、この淫売女っ」
口汚く罵られて、追い立てられるように部屋を出る。
早足で廊下を過ぎながら、何とか一眞と連絡を取る方法はないものか、胡蝶は懸命に考えていた。この屋敷には、何かいる。そのことを一眞に知らせねばと思った。




