花ノ宮伊久磨の企み
結局その日、侯爵には会えなかった。それもそのはず、ここ数日、仕事で皇宮に寝泊まりしていて、屋敷には戻っていないらしい。
「お父様はいつお戻りになるかしら?」
「さあ、それは分かりかねます」
ぼんやりとした女中の返答を聞いて、胡蝶はため息をついてしまう。
これは長期戦になりそうだと思ったものの、
――こんなところでじっとしてなんていられないわ。
そう思い、胡蝶は早速手紙を書いた。
皇后陛下に宛てて、至急父に会いたい旨を伝える。
「これを、皇宮におられる皇后陛下にお渡しして」
近くにいた使用人に渡して、ようやく一息つけた。
あとは返事が来るのを待つだけだ。
***
「悪いな、胡蝶。お前に好き勝手されると、僕が父上に叱られるんだ」
書斎室で手紙の内容を確認すると、伊久磨はそれをぽんと暖炉に投げ入れ、燃やしてしまう。使用人たちには、胡蝶が出した手紙、または彼女に宛てた手紙は全てこちらに回すよう、事前に指示していたが、こうも早く彼女が行動を起こすとは思わなかった。
――今、叔母上に出でこられると都合が悪い。
本来なら、父を手伝うために皇宮に詰めて仕事をしている伊久磨だったが、現在は父の命令に逆らい、胡蝶が帰省するより先に屋敷に戻っていた。
なぜなら、
「今さら、お父上の顔色を気にする必要がありますか?」
顔を向けると、書斎室の片隅に座って本を読んでいた少年が顔を上げてこちらを見ていた。見た目こそ美しい少年の姿をしているが、中身は大人――少年の姿に化けた蛇ノ目である。
軍の精鋭部隊ですら捕獲できなかった彼を見つけ、保護できたことは奇跡に近いと伊久磨は考えていた。もっとも、こちらが捜して見つけたというより、彼のほうから接触してきたというべきだろう。
――そういえば使用人が以前、庭先で蛇を見かけたと言っていたな。
長い逃亡生活により、蛇ノ目は傷つき、疲弊していた。
そんな彼を、伊久磨はあることを条件に匿うことにしたのだが、
「母上のご様子はどうだ?」
「私が調合した新薬が効いているようで、順調に回復しておられますよ」
蛇の毒は、使い方次第では薬にもなる。
「時間はかかりますが、最終的にはまた、歩けるようになるかと」
「そうか」
彼の毒で車椅子生活になった母が、今度は彼の毒によって救われるとは、皮肉なことだと伊久磨は笑う。けれど、
――母は十分に罰を受けた。もう、許されてもいいはずだ。
「それで父上……侯爵のほうはどうだ?」
「そちらはまもなく効果が現れるかと」
伊久磨は頷き、窓の外を見上げる。
良いことも悪いことも、自分がやったことには必ず責任が伴う。だからこそこれまで、行動する時は慎重に――面倒事には極力関わらないようにしてきた。
――僕も将来、父上と同じ道を辿るかもしれない。
それでもこの決断に悔いはないと拳を握り締めたその時、
「伊久磨、入るわよ」
ずかずかと部屋に入ってきた摩璃子の姿を見、ため息がこぼれる。
「ノックくらいしろよ」
「あら、気付かなかったわ。ごめんなさい。それより誰よ、その子」
目ざとく蛇ノ目に気づいた摩璃子に、本当のことを話すわけにもいかず、
「知人から預かった。身体が弱くて、療養させている」
摩璃子は「ふーん」と意味深な声を出すと、少年の顔をじろじろと見る。
「綺麗な子……まさか伊久磨にこんな趣味があったとはね」
「趣味じゃない」
「隠さなくてもいいじゃない。私とあんたの仲なんだから」
妙な誤解をしているようなので、とりあえず口外するなとだけ釘を刺すと、
「分かってるわ。身内の恥をばらすほど、私も馬鹿じゃないし」
――身内の恥。
完全に的外れでないところが腹立たしい。けれどどうせ、摩璃子の言うことなど誰も本気にしないだろうと思い、怒りを静める。
「ちょうどいいわ、この子、少しだけ貸してくれない?」
「身体が弱いと言ったはずだ」
「もちろん無理はさせないわよ。ただちょっと、胡蝶に仕返ししたいだけ」
くだらない、と伊久磨が吐き捨てる前に、
「構いませんよ」
少年に化けた蛇ノ目が口を開く。
「僕にお手伝いできることがあれば、何なりとお申し付けください」




