胡蝶、本邸に戻る
その日、近所の人からおすそわけでもらった大量の高菜で古漬けを作るつもりだったのに、花ノ宮家から手紙が届いた途端、それどころではなくなってしまい、柳原家の台所は重い空気に包まれていた。
手紙の内容はいつも通りのそっけないもので、いついつまでに迎えの車を寄越すから、それまでに帰る支度をしておくように、とのこと。
「どういう意味でしょう?」
と首を傾げるお佳代に、胡蝶はため息をついて答える。
「お父様のお許しが出たのだと思うわ。本邸で暮らしても良いと」
というより命令ね、と胡蝶はこっそり考える。
「それで、お嬢様はどうなさるおつもりですか?」
「……ここを離れるのは嫌だけれど、戻るしかないと思うわ」
「そんな……」
「心配しないで、母さん。悪いことなんて何も起きないから」
それに今回を逃せば、侯爵に会える機会は二度と訪れないだろう。
――お父様に会ったら、今まで無視されてきた分、言いたいことを言ってやるわ。
でなければ気がすまないと胡蝶は自分を奮い立たせる。
「それに麗子夫人はあれ以来、塞ぎ込んでいるみたいだし。顔を合わせる機会も少ないと思うわ」
「でしたら伊久磨様はどうです?」
「お兄様はお父様に次いでご多忙だから、私のことなんて眼中にないでしょう。昔からそうだったもの。私がそこにいても、誰もいないみたいに振舞うの」
兄といっても七つも年が離れているので、それも当然だと胡蝶は思っていた。それに実を言えば、異母兄のことは少し苦手だ。一見穏やかで優しそうに見えるものの、何を考えているのかよく分からないし、麗子に溺愛され、彼もまた母を慕っているようなので、当然、自分のこともよく思っていないに違いない。
「それはそれで残酷ですわ」
と怒るお佳代に、
「私はむしろありがたかったわ。伊久磨お兄様はどことなく近寄りがたい人だから。話しかけられても、うまく答えられる自信がないもの」
「お嬢様ったら、敵に弱みを見せてはいけませんよ」
敵という言葉に苦笑しつつ、「ええ、そうね」と頷く。
「でも、ずっと向こうにいる気はないの。お父様と話をしたら、すぐにここへ戻ってくるつもりよ。だって、結婚式までまだ時間があるんですもの。それまではこの家にいたいわ」
「そうですね……侯爵様がお許しくださるといいのですけど」
そう言ってお佳代は、ほんの少しだけ寂しそうな顔をした。
その日の夜、胡蝶はこっそり庭に出て、一眞に手紙のことを話した。
てっきり彼も、本邸までついて来てくれると思いきや、
「その件なら俺の耳にも入っています。今後、花ノ宮胡蝶の警護は不要だと、皇帝陛下より直々に命じられました。花ノ宮侯爵が影で動いたみたいですね。何の説明もなく、俺としても不服なのですが、義父となる人を敵には回したくないので、お許し下さい」
暗い顔で一眞は言った。
おそらく、混ざり者嫌いの侯爵のことだから、単に自分のそばから彼を遠ざけておきたいだけだろうが、「一眞さんを傷つけるなんて許せない」と胡蝶は怒り心頭だった。
こうなったら絶対、お父様に会わなければと決意を新たにする。
「胡蝶様が本邸に戻られたら、俺もできる限り会いに行きたいのですが、訪問自体、許されるかどうか」
と珍しく自信なさげな一眞に、
「長く本邸にいるつもりはありませんから、安心なさって」
と胡蝶は胸を張って答える。
すると一眞もまた、
「侯爵がお許しくださるといいですね」
心配そうにお佳代と同じことを言うので、胡蝶はだんだん腹が立ってきて、
「お父様の許しなんて必要ありません」
声を大にして言い、一眞を正面から見据える。
「一眞さんは、私が花ノ宮侯爵の娘だから結婚相手に選んでくださったの? 違うでしょ」
「それはもちろん」
「だったらもっと私のことを信用してください。私はもう、誰の言いなりにもならない。自分のことは自分で決めて、それが許されないのであれば、話し合いで解決したいと思っています」
驚いたような一眞の顔を見、胡蝶は声のトーンを落として続ける。
「お恥ずかしながら、私はこれまでお父様とまともに話をしたことがありませんでした。私が何を言ってもしょせんは子どもの戯言だと馬鹿にされて、相手にされないと分かっていたからです。でも今なら、まともに扱ってもらえる――話を聞いてもらえる気がします。そう思えるのは、一眞さんが私に自信を与えてくれたから――だからそんな顔をしないで、私のことを信じてください」
一眞は黙って最後まで話を聞くと、
「分かりました、信じます」
きっぱりと言い、はにかむような笑みを見せてくれる。
「ですがあまり無茶はしないでください」
「あら、それは約束できないわ」
「……胡蝶様」
「一眞さんこそ、いつまでその呼び方を続けるつもり?」
「…………」
「私も努力しているのだから、一眞さんも頑張って」
「……胡蝶」
「よく聞こえませんでした」
「こ、こ、胡蝶」
「どうして二度目でどもるんですか」
呆れ半分、愛しさ半分の気持ちで、胡蝶は笑った。
***
「あーやだやだ、芋娘のご帰還だわ」
本邸に足を踏み入れた途端、嫌味ったらしい異母姉の声を聞いて、胡蝶はげんなりしてしまう。
「いらしたんですのね、摩璃子お姉様」
「何よ。ここは私の家よ。自分の家にいちゃ悪い?」
「まあ、離婚されたなんて知りませんでしたわ」
びっくりして言えば、摩璃子はそれを嫌味だと思ったらしく、
「あら、あんたも言うようになったじゃない。残念ながら今も人妻よ。可哀想な出戻りのあんたと違って――あー、そういえば婚約したんですってね。気味の悪い混ざり者と。おめでとう、あんたにぴったりの相手だわ」
摩璃子を相手にすると何を言っても嫌味で返されてしまうので、自然と口数が少なくなってしまう胡蝶だったが、今度ばかりは負けるものかと――でなければ何のために大切な家族と別れて、花ノ宮家に戻ってきたのか分からない、何より、一眞の悪口は絶対に許せないと口を開く。
「伯爵夫人風情が、公爵閣下の御子息を悪く言うなんて許されるとお思いですか?」
普段はこんな言い方はしないし、したくもないのだけど、摩璃子のような人間には効果的だと思い、あえて高慢な態度をとる。
「皇后陛下が知ったら、さぞご不快になるでしょうね。御夫妻共々、一眞さんのことをとても信頼しておいでだから」
案の定気に障ったのか、摩璃子は頬をピクピクさせていた。
「何よ、たかがお茶会に招待されたくらいで偉そうに。あの方は私にとっても叔母に当たる方よ。立場は同じなんだから、自分だけが特別だと思わないで」
「ご自分を特別だと思っているのはお姉様のほうではなくて? あまり我がままが過ぎると、お義兄様に愛想つかされますよ」
「出戻り女のあんたに言われてもまったく説得力ないわね」
ふんと鼻で笑われて、思わずため息が出てしまう。
「そういえば、お姉様はいつまでこちらに?」
「いつまでだって構わないでしょ。あんたに関係ある?」
「いえ、ただ、甥っ子の姿が見えないので……」
「あの子なら主人の屋敷にいるわ」
「……連れて来なかったのですか?」
「どうしてわざわざ。あの子の世話をする人間なら大勢いるのに」
そういう問題ではないと、胡蝶は口を開く。
「まだ五つになったばかりなのに。お母様と離れていては、不安に思うでしょう」
一瞬だけぽかんとした摩璃子だったが、
「何よ。私がおかしいって言いたいわけ? 子どもと離れて平気なのかって?」
逆上したように声を荒げ、顔を真っ赤にする。
「ええ、そうよ。平気よ。それどころか、うるさくまとわりつかれなくて清々してるわ。子どもなんて大嫌いっ。甘ったれで、我がままで、何の役にも立たない――世の中の母親が皆、無条件に我が子を愛すると思ったら大間違いよっ」
「お姉様っ」
胡蝶が何か言う前に摩璃子はくるりと背を向けると、逃げるようにその場から立ち去ってしまう。摩璃子の子どもじみた言動は今になって始まったわけではない。同じ双子なのに麗子夫人が息子の伊久磨ばかり偏愛するから――いや、今は摩璃子に同情している場合ではないと、胡蝶は頭を切り替える。
――さあ、お父様に会いに行きましょう。




