摩璃子伯爵夫人の憂鬱
「胡蝶を本邸に戻そうと思う」
父である花ノ宮侯爵の言葉に、伊久磨は頷き、摩璃子は嫌そうな顔をした。本妻の子である伊久磨と摩璃子――双子にとって、胡蝶は七つ年下の異母妹にあたる。
「あれが龍堂院家に嫁ぐまでの短い期間だ。それまで仲良くするように」
いくら父の命令でもそれだけはきけないと、摩璃子は断固として考える。なぜなら摩璃子は胡蝶のことが嫌いだったからだ。若く美しく、摩璃子にはないものをたくさん持っている。
――これが男兄弟なら許せるのに、姉妹だと許せないのはなぜかしら。
お前はひがみっぽいとよく伊久磨に言われるものの、摩璃子はその事実を認めたくなかった。上位貴族の娘として生まれ、伯爵夫人として良家に嫁いだ自分が、羨まれることはあっても他人を羨むことはないのだと、信じたかった。
――そうよ、しょせんは妾の子じゃない。
婚約者も公爵家の跡取りとはいえ、卑下すべき混ざり者、余り物同士くっつかざるをえなかったのだと考え、溜飲を下げる。
「特に摩璃子、お前はいつも胡蝶にキツく当たりすぎる。今後は気をつけなさい」
命令口調な父のこの言葉で、再び胡蝶に対する怒りが湧いてきた。
なぜ兄妹仲良くしなければならないのか、年上は年下の子の面倒を見なければならないのか、そのための我慢を強いられなければいけないのか――いい年をして、と思われるかもしれないが、父を前にするといつも子どもの自分に戻って、強い反感を覚えてしまう。
――お父様もお母様も、親兄弟は無視して、好き勝手やっているくせに。
反面教師、自分のことは棚に上げて、とはよく言ったものだ。たまに「お前に新しい兄妹ができるんだよ」と嬉しそうに子どもに報告する親を見かけるが、摩璃子はその光景を見るたびに胸を痛めていた。
――あれはもう、我が子を追い詰めてるのと同じよ。お前の居場所が奪われるぞって。
子どもにとって兄弟はいわば競争相手、「長女だから、長男だから優遇されている」だの「末っ子だから一番可愛がられている」だのと、互いを羨み、妬む間柄であると、摩璃子は考えていた。
――私は絶対に自分の子に、兄妹仲良くしろだなんて言わないわ。
そんな考えだから、第一子を生んでからかなり時間が経つというのに、二人目ができないのだろうか。
「摩璃子、返事は?」
正面から父に睨まれて、摩璃子はビクビクしながら「はい」と返事する。
「聞こえない、返事をする時はもっと大きな声を出しなさい」
それは年のせいでお父様の耳が遠くなっているせいよと言い返したかったが、摩璃子はぐっとこらえる。
「なぜ黙っている? 私の言うことがきけないのか? 摩璃子、こっちを見なさい」
父の恐ろしい目が見られず、摩璃子は泣き出しそうになっていた。他家に嫁いだのだからもう父の命令に従う必要はない、堂々と「自分には関係ありません」と答えればいい――頭では分かっていても、父のことが怖くてたまらず、口ごもってしまう。
「父上、摩璃子には私からよく言って聞かせますから、その辺で許してあげてください」
いつも通り弟の伊久磨が仲裁に入り、摩璃子はほっとした。伊久磨は父のお気に入りだ。泣き虫できつい顔立ちの自分とは違って、優しい面立ちで社交的だが、人には滅多に心を開かない。合理的な思考や冷酷な性格も父親譲りで、花ノ宮家の後継として自他ともに認められている。
――私が信じられるのは伊久磨だけ。
彼だけは他の兄妹とは違う――摩璃子にとって伊久磨は唯一の理解者であり、また何でも相談できる無二の友人でもあった。
伊久磨が未だ独身なのは、臆病なくせに独占欲の強い摩璃子が、婚約者との仲を邪魔したせいもあるのだが、そのことで彼に責められたことは一度もない。
――伊久磨だって本当は、お父様の言いなりになるのは嫌なのよ。
表面上はいい子を演じて、父の言うことに従っているように見えるが、内心では、父に対する不満や憤りを抱えていることに、摩璃子だけが気づいていた。
「父上は母上に冷たすぎる」
「何度も浮気されれば、そうなるわよ」
「それは父上だって同じだろ」
「男は許されても女は許されないの。そういう世の中でしょ?」
「俺は……許してない」
子どもの頃から、母に対する仕打ちがひどすぎると、伊久磨は――伊久磨だけが父に怒っていた。母が車椅子生活になったのは自業自得だと摩璃子は思っているが、伊久磨は違うようだ。
「あの人は人間じゃない。鬼だよ」
そういう貴方にも父の血が流れているのよと言いたかったが、摩璃子は黙っていた。父のことを恐れて何も言えないのは、彼も同じだから。
無事に父から解放され、書斎室を出ると、
「摩璃子、いつも言っているだろ。もっと要領よくやれよ」
「……ごめんなさい」
素直に謝ると、伊久磨は鷹揚に頷いてみせる。
「それで、胡蝶が戻ってきたら優しくする気はあるのか?」
「もちろんないわよ」
はっきり告げると、
「せめて優しくする振りくらいはできないのか?」
困ったように妥協案を提案される。
「そんなことをして私に何の得があるの? ストレスが溜まるだけじゃない」
「そういう奴だよ、お前は」
「伊久磨こそどうなの? あの子を優しく迎えるつもり?」
「当たり前だろ。可愛い妹なんだから」
冗談でも面白くなくて、ムッとして口をつぐむと、
「お前こそいつまでここにいるつもりだ? そろそろ家に帰らないと旦那が心配するぞ」
「あの人が私の心配なんてするもんですか」
「お前が留守の間によその女を招き入れるかもしれない」
「いいわよ、別に。浮気したって。どうせ私たちの間に愛なんてないんだから」
子どもの面倒は乳母が見てくれるし、家の切り盛りは全て使用人任せで、自分が家に帰ったところで何もすることはないのだと、摩璃子はため息をつく。
「私がいたら掃除の邪魔になるだけよ」
「いい加減、大人になれよ、姉さん」
呆れたような弟の言葉に、摩璃子はふんと鳴らす。
「ガキなのはお互い様でしょ」
伊久磨は笑い、自室に向かって歩き出す。
そんな彼の後を当然のようについて行く摩璃子だった。




