百目鬼姐さんと卯京兄さんのその後の話
田舎の朝は静かだ。
都会の喧騒から離れて、鳥のさえずりに耳を澄ませながら畑仕事に出かける。
朝の風が心地良く、知らず知らずのうちの鼻歌を口ずさんでいた卯京は、周りに誰もいないことを確認すると、照れ隠しに頭を掻いた。
――浮かれてんなぁ、俺。
最初はどうなることかと思ったが、ここでの暮らしにもようやく慣れてきた。駆け落ち同然で街を飛び出し、落ち着いた先は老人ばかりが住む辺鄙な村だったが、ここでの生活を卯京は案外気に入っていた。空家ばかりで住む場所には困らなかったし、村人たちは親切で、あれこれ世話を焼いてくれるおかげで、人並みに生活できている。
仕事もそれなりに充実していた。
朝から昼にかけて近くにある農家の畑仕事を手伝い、午後は隣村まで行って食堂の皿洗いや雑用をこなし、家に帰れば薪割りや家畜の世話、家の補修作業と、やることは山ほどあったが、不思議と苦にはならない。
――姐さん……いや、お琴が最近、よく笑うようになったせいかな。
姉女房は身代の薬、とはよく言ったもので、彼女は本当によく働く。朝は家の用事をこなし、午後は自分と同じ隣村の食堂で給仕をしている。料理は苦手だと言っていたわりに彼女の作るがめ煮は絶品で――微妙に胡蝶の作るものと似ているが気のせいだろう――毎晩の晩酌が楽しみになっていた。
――ああ見えて努力家だからなぁ。
普段は抜けるような白い肌が、風呂上りや照れた時なんかにほんのり上気して、桜色に染まる瞬間が好きだ。けれど家畜の死を悲しんだり、料理を失敗して落ち込んだりした時は、いっそう白く透き通って見えるので、それはそれで綺麗だと思える。
――妖怪混じりって言ったって、見た目は普通の人間にしか見えねぇよな。
もっともお琴曰く、人間のふりをしているだけらしいが。一度、本当の姿を見せて欲しいと頼んだところ、頑として断られてしまった。
――俺のこと、完全には信用してくれてないんだな。
本性を晒せば自分が怖がって逃げるとでも思っているのだろうか。一時は落ち込んだものの、結婚して夫婦となった今、関心事は別にあった。
――あー早く子どもできねぇかな。
その話をすると、いつもお琴は悲しそうな顔をして、「生まれてくる子が妖怪混じりでもいいのかい?」と心配そうに訊ねてくるので、少しでも彼女の不安を取り除こうと、言葉ではなく行動で示すようにしている。
彼女のことを好きになればなるほど、蛇の目をした男の顔が脳裏をちらついて、どうしようもない怒りを感じた。できることなら二度と彼女に近づくなと言って殴り飛ばしてやりたいが、早々に妻を未亡人にするわけにもいかず、ぐっと怒りを押し殺す。
――この件は狐の兄さんに任せてるからな。
きっとあの人が何とかしてくれるに違いない。お琴もこの件に関しては協力的で、以前の険悪なムードが嘘のように、穏やかな態度で一眞に接している。
「山姥や二口にも手を出さないと約束してくれるかい?」
「今後、国の仕事に従事すると約束するなら」
「ああ、約束する。二人にも約束させるよ」
その二人はお琴と同じ混ざり者で、友人らしい。
卯京も以前から会ってみたいと思っていたのだが、
――そういえば、今日うちに来るって話してたな。
珍しくお琴が朝からそわそわしていたので、よほど楽しみにしているのだろう。女同士の会話に男が混じるのも何なので、お昼に顔を出して挨拶したら、早々に引き上げたほうがいいかもしれないと、卯京は歩調を早めた。
***
「百目鬼姐さん、元気そうで良かったね」
百目鬼の家からの帰り道、二口は隣を歩く山姥に言った。
「それにしても姐さんもうまいことやったよねぇ、あんな年下のイケメンをゲットするなんてさ」
「言葉に気をつけな、二口、ゲットされたのは姐さんのほうだよ」
「ああん、私もゲットされたいよぉ」
「今さら猫かぶるんじゃないよ、肉食系が」
呆れたように言って、山姥はため息をつく。
「姐さんも姐さんさ、あんなひょろひょろしたガキのどこがいいんだか」
「あんたも試しに年下と付き合ってみれば? 一気に若返るから」
「……そういえば姐さん、なんか艶々してたね」
「愛されまくってる証拠じゃん、羨ましすぎ」
「しかもあの旦那、姐さんが混ざり者だって知ってるんでしょ?」
「驚きだよねぇ。人は見た目に寄らないって言うけど、本当だね」
下世話な会話を楽しみつつ、しみじみとした口調で言う。
「でもさ、良かったよね。姐さんが幸せそうで」
「蛇ノ目様ってテクはすごいけど、冷たそうだもんね」
「だから熟女に好かれるんでしょ」
「私はダメだな、あーいう鬼畜系」
「あんたの後ろの婆さんはそう思っちゃいないみたいだよ」
先ほどから聞こえるボソボソ声に耳をすませると、
「あたしら皆、蛇ノ目様に殺される、殺されるよ。蛇は執念深いからね」
怯えた声で、同じ台詞を何度も繰り返している。
「姐さんが裏切ってから、こればっか」
「ついにボケが始まったんじゃない?」
「かもねー」
「でもマジでそうなったらどうする?」
「黒狐の坊やがどうにかしてくれるでしょ」
そういえば先ほどから、子狐の姿をちらほら見かけるような。
「相変わらず楽天家だね、二口は」
「だってうちら、もう身内みたいなもんじゃん?」
「あんたのそういうとこ、ホント羨ましいわ」
姉妹の契りを交わしたとて、本当の家族になったわけでもなく、龍堂院一眞や花ノ宮胡蝶にとっては赤の他人も同然のはずだが、
「それに姐さんも言ってたよ。姫さんからよく手紙が来るって。慕われてる証拠でしょ」
「それって料理のレシピがびっしり書いてあったやつでしょ? 姐さん、地味にプレッシャー感じて泣きそうになってたよ。小姑じゃん」
「あの姐さんをビビらせるなんて……やるねぇ、姫さん」
話が脱線してきたので、元に戻す。
「そりゃ蛇ノ目様の報復は怖いけど、真っ先にヤられるとしたら七穂でしょ」
「地下牢で締め上げられて、情報漏らしまくってるらしいしね」
「それ、裏切るのも時間の問題じゃん」
「ってか、あいつが姫さんに惚れてる時点でアウトだと思う」
「改めて考えると、七穂も可哀想な奴だよねぇ」
「そうだね」
話が一段落し、しばらく無言で歩いていた二人だったが、
「なんか年甲斐もなく恋がしたくなってきた」
「だねー」
「ってか姐さん、うちらの前でノロケすぎじゃね?」
「見せつけられたっていうかぁ――なんか腹が立ってきた、みたいな?」
「あたしは自分が惨めでいたたまれなくなってきた」
「山姥は彼氏と別れたばっかだから余計に辛いよねぇ」
「それなのに姐さんときたら……」
「私らにも少しは気を使えって感じだよねぇ」
「あー、思い出したらムカついてきた」
二人はおもむろに足を止めて振り返ると、
「「一人だけ抜けがけしやがってっ。姐さんのバッカやろうっ」」
大声で叫ぶと、夕日に向かって猛然と走り出した。




