胡蝶、罠にかかる
卯京より一つ遅れて汽車に乗った胡蝶は急いでいた。早く用事を済ませて家に帰らなければ、一眞に家にいないことがバレてしまう。
「あれは……お琴さん?」
途中で足が疲れて、橋のたもとで休憩していたところ、見知った女性の姿を見かけた。考えごとでもしているのか、ぼんやりと歩いている様子だったので、「お琴さんっ」と大きな声で呼びかける。
――まさかこんなところで会えるなんて……店まで行く手間が省けたわ。
百目鬼はこちらに気づくと、まっすぐ近づいてくる。
「姫さん、また来たのかい?」
「ええ、もう一度ノア様に会って、話がしたくて。お琴さんに言えば彼のところへ案内してくださると言われたものですから」
「……ああ、もちろん。あの人のことならよく知ってるよ」
付いてきな、とばかりに歩き出す百目鬼を後ろを、すぐさま追いかける。
「ノア様のところはここから遠いんですの?」
「いいや、店からすぐ近くの宿屋にいるよ」
それなら大して歩く必要はなさそうだとほっとする。
「ところで話っていうのは……ああ、言いたくないならいいさ」
赤の他人ならもってのほかだが、彼女のことを話す卯京の顔を思い出して、口を開く。
「影国へ留学しないかと誘われたので、お断りに」
「そんないい話を断るのかい?」
頷く胡蝶に「どうして」と百目鬼は訊ねる。
「卯京から聞いたけど、姫さん、料理をするのが好きなんだろ? 影国は美食の国でも有名だし、行って料理の勉強をしてみたいとは思わないのかい?」
「ええ、してみたいわ。けれど料理を作っても、それを食べてくれる家族が……一眞さんがいないと、意味がありませんもの。だって料理って、食べてくれる人のことを考えながらするものでしょう?」
影国に行けばそれができないので、きっと途方に暮れてしまうだろう。食材選びも、料理をする過程も好きだけど、胡蝶が一番好きなのは、その料理を食べてくれる人の顔を見ることだから。
「そういえばお琴さんは料理をなさいますの?」
百目鬼は意表を突かれたような顔をすると、
「い、いいや、実を言えばあんまり得意じゃなくて……」
「卯京兄さん、がめ煮が好物なんですけど、お作りになったことは?」
ないねぇ、と気まずそうに視線を逸らす。
「よろしければ今度、レシピを教えましょうか?」
「それは……助かるよ」
なぜか自信なさげな百目鬼を見、胡蝶はくすくす笑う。
「簡単な料理ですから、すぐに覚えられますわ」
「……着いたよ、あの人がいるのはここだ」
たどり着いたのは樹木に囲まれた広い敷地で、建物らしきものは何もない。
「お琴さん、どこにも宿屋なんてありませんけど」
「あれが何か分かるかい?」
そう言って、百目鬼がおもむろにある場所を指差す。
彼女の視線の先を追って、胡蝶は息を飲んだ。
そこには縄で拘束され、ぐったりと横たわる男性の姿があったからだ。
「そんな……ノア様?」
「死んじゃいないよ、今はね」
淡々とした百目鬼の言葉に、耳を疑う。
「彼が何者か、お琴さんはご存知のはずですわね」
「影国の第三王子様で、あんたの初恋の相手さ」
胡蝶は信じられない思いで百目鬼を見つめると、
「影国の王族をさらうなんて正気じゃないわ。戦争でも引き起こす気?」
「それはあんた次第だよ、お姫様」
がらりと雰囲気の変わった百目鬼を前にし、胡蝶は平静さを保つので精一杯だった。
「まさか、卯京兄さんも――」
「あの子は何も知らないし、この件には無関係だよ」
百目鬼は即座に言い放つと、
「恋人だと嘘をついたのは、あんたの信用を得るためさ」
それでも安心はできないと、胡蝶は唇を噛み締める。
「それで、私は何をすればいいの?」
「料理を作るより簡単なことさ。もうすぐしたら、あんたの痕跡を追って、黒狐の坊やがここへ来る。そしたら盛大にフってやりな。初恋の人と結婚したいから、婚約は解消すると言うんだ。いいね」




