胡蝶、夜の蝶になる
「本日はご来店して頂き、ありがとうございます。お客様のお話相手を務めさせて頂きます、胡蝶と申します」
特に構える必要はないし、お酌をしながらお客様の話を聞いて、適当に受け流せばいいだけだと百目鬼には言われたものの、胡蝶は内心、ひどく緊張していた。
――かあさんが大変な時に、こんなことしてていいのかしら。
いや、これも母のためだと、卯京を家に連れ戻すために必要なことだと思い直し、目の前のことに集中する。とにかく、今の自分にできることをするまでだ。
反射的に、テーブルを挟んで向かい側の席に座わろうとして――これだとお酌ができないわね、と思い、慌ててお客様の隣の席に座ると、
「どうしてそんなに離れて座るんですか?」
おかしそうにお客様に訊かれて、「えっ」と戸惑ってしまう。
「もっとくっついて座ってくれなきゃ、皆そうしてるでしょ?」
周りを見回してみれば、確かに。
それよりも驚いたのは、お客様の容姿だった。
今まで目を伏せていたので気付かなかったが、
――和国の人ではない?
照明の明かりで煌く金髪に、はっと目を見張るような緑色の瞳――花ノ宮家で与えられた西洋の人形のような顔立ちをしていて、歳は20過ぎたくらいか、ひと目で異国の客人だと分かる風貌をしている。
「ずいぶんと、この国の言葉がお上手ですのね」
褒めたつもりが、彼は少し残念そうな顔をして、
「私のこと、覚えていませんか?」
「えっと……」
まじまじと彼を見て、「あっ」と声を上げる。
「……ノア様」
「よかった、覚えててくれたんですね」
まだ一眞と出会う前――女学生だった頃、紫苑の紹介で彼に出会った。その時、彼はお忍びで和国を訪問していて、あとになって、彼の正体が影国の第三王子だと知った。
ほんの数日程度、一緒に過ごしただけだが、博学で気さくな彼に好意を抱いた胡蝶は、彼が帰国してからも、密かに手紙のやりとりを続けていた。もちろん内容は、互いの近況を報告し合うような、当たり障りのないものだったけれど、その時にはもう、彼のことを好きになっていたと思う。
――けれど私の結婚が決まって、返事が来なくなってしまったのよね。
淡い初恋は一方的な片思いで終わってしまったけれど、今となってはいい思い出だった。その思い出の彼が目の前に現れて、胡蝶は動揺してしまう。
「どうして、貴方のような方が、ここに……?」
それはこちらの台詞ですよ、とすぐさま返されて、それもそうだと笑ってしまう。簡単に事情を説明すると、彼はホッとしたようだった。
「なるほど、でしたら手伝いでここにいるわけですね」
「ええ、少しでも兄の役に立ちたくて。ノア様はどうしてこの店に?」
「単なる好奇心ですよ。今回もお忍びで来たので、あちこち視察してから帰ろうと思いまして」
「紫苑にはもうお会いになりまして?」
「はい、元気そうで安心しました。相変わらず、貴女の話ばかりしていましたよ」
「まあ、それはお耳汚しを……」
「とんでもない。おかげで楽しい時間を過ごせました」
お世辞だと分かっていても、女学生時代を思い出してドキドキしてしまう。
「料理に対する情熱をまだお持ちのようで」
「ええ、お恥ずかしながら……」
「貴女さえよろしければ、一度、影国に来られませんか?」
「あら、どうして?」
「我が国は寛容です。貴族の女性が料理をするなんて、と眉をひそめられることもない。現に女性の料理人がいますし、料理のレシピ本を出している貴族のご婦人方も多数いらっしゃいます。思う存分、料理の勉強ができますよ」
この言葉に、心動かされなかったといえば嘘になる。
「まだ婚約期間中なのでしょう? 結婚すれば外出も難しくなるでしょうし、今のうちに我が国へ来られてはどうでしょう? いい経験になると思いますよ」
断らなければと思うのに、すぐに返事ができなかった。
『貴女は俺の妻になる女性だ。いつまでも子どもじみたことをおっしゃられては困ります。未来の公爵夫人として、正しい振る舞いをなさってください』
一眞の言葉を思い出して黙り込む胡蝶を見、ノアは苦笑する。
「悩んでいますね。婚約者に反対されるのが怖いですか?」
「……反対、するでしょうか?」
「間違いなく反対するでしょうね。紫苑から聞いた話では、貴女の婚約者はずいぶんと過保護なようだ。ですからこの話はギリギリまで伏せていたほうがいいでしょう」
「そう、ですわね」
「まだしばらく、この国には滞在するつもりなので、決心がついたら、この店のお琴という方に伝えてください。彼女が貴女を私のところまで連れてきてくれるでしょう」
そう言うと彼は立ち上がり、異国風の帽子とコートを身に付ける。胡蝶も立ち上がって身支度を手伝いながら、店の出口までついて行く。
「また貴女に会える日を、心待ちにしています」
笑顔で言って、迎えに来た自動車に乗り込む彼を、胡蝶は見えなくなるまで見送っていた。




