北小路清春の言い訳
借金を肩代わりしてくれることを条件に、正妻として娶った花ノ宮胡蝶は、これまで付き合ったどの女とも違っていた。最初見た時は、これほど美しい女を手に入れらるのかと歓喜したが、女の方は少しも嬉しそうではなく、むしろ蔑むような視線を向けてきた。
ああこれが公家の血筋という奴かと、ぞっとしたのを覚えている。
これまでの自分は、「清春ぼっちゃま」「子爵様」「お貴族様」とちやほやされて、いい気になっていた。貴族に生まれたというだけで、自分は特別な存在だと思い込んでいたのだ。芸者遊びは父から学び、一時は夢中になっていた時期もあったが、基本女には困らなかった。美人の母親に似たせいか、ほんの少し優しい言葉をかけただけで女はホイホイ付いてくる。母性の強い、年上の女性たちには殊さら可愛がられた。けれど胡蝶に出会って、これまで自分を支えてきたものが、この女の前では何一つ通用しないのだと思い知った。
――下手に手を出せば、や(殺)られる。
士族上がりの妾の子とはいえ、お姫様育ちで大変気位が高いと聞いていたので、北小路家の使用人たちも皆ビクビクしながら彼女に接していたようだ。とにかく彼女には表情がなく、顔を合わせてもニコリともしない。口数も少なく、何を考えているのか分からない女だった。高価な着物や宝石をプレゼントしても少しも嬉しそうではなく、それどころか「浪費をお控えください」と説教してくる始末。
「お前は俺に不満でもあるのか?」
ある時たまりかねて怒鳴りつけると、妻はスっと目を細めた。まるでその辺に落ちているゴミ屑を見るような――この時の清春にはそう思えた――視線に耐え切れず、「い、言いたいことがあるならはっきり言えっ」と精一杯虚勢を張る。
しかし妻は顔色一つ変えることなく、
「ございません」
「だったらどうして、そういつも上から目線なんだ」
「……どういうことですか?」
「侯爵家よりも格下の子爵家だからと、俺を馬鹿にしているだろう?」
「いいえ」
「だったら金に関することは一切口出しするな」
「……承知しました」
頭を下げて殊勝な振りをしているが、どうせ格好だけだ。内心ではきっと、心の狭い男だと呆れているに違いない。清春は歯噛みした。女王様気取りで家に居座られているだけでも我慢ならないのに。彼女の顔色を始終うかがって、ビクビクしている使用人たちが哀れでならなかった。
――1年だけだ。1年だけ我慢したら、この家から追い出してやる。
離婚の件に関しては、侯爵の本妻――義母から許可をもらっている。
元より、そういう約束で結婚したのだ。
――本妻が妾の子を憎むのは当然だからな。
出戻りとなれば、今までのような贅沢な暮らしは許されない。実家に戻れば、さぞかし肩身の狭い思いをするだろう。想像するだけでキリキリしていた胃痛も治まり、気分が良くなってきた。
――離婚したら、あの女の惨めな姿でも拝みに行くか。
そして一年後、計画を実行した清春だったが、
「……あれは誰だ?」
胡蝶が幽閉されているはずの民家、その近くに身を潜めていた清春は、低い塀越しに中を覗き込んで、唖然としていた。民家の引き戸は全て開けっ放しで、ここからでも十分、中の様子を見ることができるのだが、
「まさか……嘘だろ」
先ほどからやけに良い匂いがすると思ったら、台所で誰かが食事の準備をしていた。鼻歌を口ずさみ、楽しそうに料理をしている。おそらく通いの女中か、乳母に違いないと思いきや、
「胡蝶……」
目を疑うような光景だった。粗末な着物姿で、薄汚れた割烹着を身に付け、自分の食事を自分で作っている。何より信じられないのが、美しい顔に笑みを浮かべていることだ。あの女の笑った顔を、清春は一度も見たことがなかった。まさか離婚後に、心からの笑顔を見せつけられようとは。
――だが彼女は、俺がここにいることを知らない。
誰にも見られていないと思っているからこその、素の表情。
おそらくあれが本来の彼女の姿なのだ。
少しも気取ったところがなく、自然で、可愛らしい。
――俺は……俺は……。
自分が一体何にショックを受けているのか分からないまま、清春は立ち上がった。長くここにいれば、遅かれ早かれ誰かに気づかれてしまうだろう。万が一、彼女に気づかれてしまったら――。
心臓を鷲掴みにされたような苦しみを覚えて、清春はよろよろとその場から離れる。すぐさま迎えに来た自動車に乗り込むと、逃げるようにその場を後にした。




