お重に詰めた故郷の味
店内に戻ると、化粧を直していた卯京がぎょっとしたようにこちらを見る。
「胡蝶、お前なぁ……」
「怒らないで、兄さん。これを渡したら、すぐに帰るから」
手にしていたお重の包みを押し付けるように渡すと、卯京はきょとんとしていた。
「今朝、早起きして作ったの。卯京兄さんの好きなものばかり詰めたのよ」
「へぇ、がめ煮かぁ」
お重の蓋を開けて中身を見せると、途端、卯京の表情が柔らかくなった。
「家を出たあと、たまにこれが食いたくてさ。試しに自分で作ってみたことがあるんだ。けど、ひでぇもんだったよ。野菜は黒くなるし、味もしょっぱくてなぁ。仕方ないから安い店に行って注文したら、野菜は硬いわ味はしみてないわで、がっかりだしよぉ」
「そう。多めに作ったから、職場の皆さんと食べてね」
卯京は素直にお重の包みを受け取ってくれた。
その際、胡蝶の手を取って、まじまじと指先を眺める。
「手が荒れんなぁ。俺よかひどいぜ」
「そうかしら?」
「そういやお前、料理するの好きだったもんな」
「あら、今だって好きよ」
「……おふくろは元気にしてるか?」
「さあ、どうかしら。自分の目で確かめたらいいじゃない」
さりげなく手を引っ込めて、ツンっと顔を背けると、卯京は「ははっ」と笑う。
「そういうところは相変わらずだな、胡蝶」
「そういうところって?」
聞き返しつつ睨みつけると、卯京は笑いながら返す。
「おせっかいで優しいとこがさ。さあ、今度こそお帰り。外で旦那が待ってるよ」
***
「まあ、美味しい。これ、本当に兎羅々ちゃんの妹さんが作ったのかい?」
「あたしゃてっきり出前でも取ったのかと思ったよ」
「本当にねぇ、お金が取れるレベルだ。とても料理ベタなあんたの妹さんとは思えないよ」
カフェー「浅き夢見し」の休憩室、女給たち皆でお重を囲んで遅めの夕食を取る。妹の手料理が思いがけず好評で、卯京は誇らしげな気持ちだった。
「実際、店で出したら売れるんじゃないかい?」
「うちの店は料理がまずいって評判だしねぇ」
「馬鹿お言いでないよ、うちは料理をウリにしてるわけじゃないだろ」
「そりゃ、客の目当てはあたしらと簡単に酔える安酒だろうけど……」
同僚たちの話を聞きながら、卯京はそっと目を伏せた。可愛い妹を二度とこの店に立ち入らせる気はなかったが、それを言えば楽しい会話に水を差してしまう気がして、黙っていた。
「百目鬼姐さんはどう思うね?」
百目鬼と呼ばれた女性は、カフェーで一番の古株だ。色白のうりざね顔で、いつも物悲しげな表情を浮かべている。年齢不詳だが、店のオーナーとも親しく、卯京が尊敬する数少ない人間の一人だった。
数年前、金に困って物乞い紛いなことをしていた自分に、食事を奢ってくれて、勤め口まで世話をしてくれた。普段から無口で、何を考えているのかよく分からない人だが、根は世話好きらしく、若い女給や同僚たちからも慕われている。
「兎羅々、お前さんに妹がいたなんて初耳だねぇ」
「……うちは兄妹が多いもんで、たまに忘れちまうんですよ」
百目鬼は伏せていた目を上げると、じっと卯京を見つめる。百目鬼は色気のある美しい女性なので、卯京はドキドキしながら言った。
「なんだい、姐さん。あたしの顔に何かついているかい?」
「その娘……お前さんの妹なら、さぞかし美人だろうね」
「姐さん、妹はこの仕事には向いてないよ。それに近々結婚するんだ」
その言葉に「いいなぁ、結婚かぁ」と最年少の美々が羨ましそうな声を上げる。
「あたいも早く結婚したいな」
「その前にいい人を見つけなきゃ」
「いるかなぁ、そんな人……」
「ほら、最近、美々ちゃん目当てで来る男の人がいるじゃない、あの人はどうよ」
「やだよぉ、あんなつまんない男。顔もブサイクだし」
「まあ、女にモテないからうちみたいな店に来るんだろうしねぇ」
「そんなことないわ。中にはイケメンだっているじゃない」
「例えば?」
「ほら、いつも決まった時間にこそこそ来る……」
「あれは妻子持ちだよ。休みの日に家族で出歩いてるとこ見たもの」
あーでもない、こーでもないと話し合った結果、
「美々ちゃん、いい人見つけたきゃ、こんなところで働いてちゃダメだよ」
「そうだよ、いい男が集まるような場所で働かないと」
という結論に至った。
「お前さん方、冗談も大概にしないと、オーナーに言いつけるよ」
百目鬼の一声で皆ぴたりと話をやめると、黙って箸を動かす。
「まあ、百目鬼姐さんはオーナー一筋だから」
「ねぇ?」
「聞こえてるよ、あんたたち」
食事を終えて片付けが済むと、卯京は女給の1人を捕まえて訊いた。
「百目鬼姐さんがオーナーに惚れてるって噂は本当かい?」
「本当さ。オーナーと話す時の姐さんの顔、一度でいいから見てみなよ。甘ったるい声出してさぁ。客の前でも滅多に笑わないあの人が、オーナーの前じゃ始終ニコニコしてんだから」
ズキズキと痛む胸を押さえながら、「オーナーってどういう人?」と卯京は訊ねる。
「姐さんを幸せにできる人かい?」
「さぁてね、金持ちだって話は聞いてるけど、あとはよく知らないよ。オーナーに会って話ができるのは店長と百目鬼姐さんくらいなもんだしねぇ」
「けど見たことはあるんだろ?」
「それがよく覚えちゃいないんだよ。帽子も被ってたしさ。けどカタギの男じゃないね、あれは。目を見た瞬間、ピンときたよ」
「目?」
「今でも思い出すとゾッとするよ。まるで蛇みたいな目ぇしてんだから」
「……意地が悪くて、冷たいってこと?」
「じゃなくて、本当に蛇そっくりな……」
「あんたたち、お喋りはそのくらいにして、さっさと家へ帰んな」
いつの間にそこに立っていたのか、百目鬼に睨まれて、女給は瞬く間に逃げてしまった。残された卯京は決まり悪そうに下を向く。
「クビになりたくなきゃ、他人の詮索なんて野暮なことするもんじゃないよ」
「……すみません、姐さん」
落ち込む卯京の背中を、百目鬼はポンポンと優しく叩いた。
「あんたも馬鹿だねぇ。あたしみたいな陰気なババアはやめて、もっとマシな女に惚れなよ。例えば美々ちゃんとかさぁ」
卯京は密かに百目鬼のことが好きだったが、まさか本人にバレているとは思わず、慌ててしまう。けれど相手にされていないことは初めから分かっていたので、
「そんな言い方よしてくれよ、姐さんの悪口言う奴は、例え姐さん本人でも許せねぇ」
「……あんたの気持ちは嬉しいよ。けどねぇ」
「分かってる、好きな男がいるんだろ?」
微笑んで頷く百目鬼を見、卯京は潤む目を隠すようにうつむく。歯を食いしばって失恋の痛みに耐えながら、彼女が惚れているという男のことを考えていた。果たしてその男は、自分以上に百目鬼のことを想っているのか? 彼女を幸せにできる男だろうか。
それを確かめないことには前に進めないと思った。




