おまけ話
「なんだかいい香りがすると思ったら、パンでも焼いているんですか?」
「いいえ、ハットケーキよ」
小麦粉にふくらし粉、牛乳、ぎび砂糖を混ぜた生地をフライパンで焼くだけの簡単ケーキだ。サワークリームを入れると喫茶店で出されるような高級感が出るのだが、うちにはないので頂き物のお抹茶を入れることにいた。
「またハイカラな料理を……」
「黒蜜も多めに作ったし、そろそろ小豆も茹で上がる頃よ」
抹茶風味のまん丸ケーキを二枚重ねて、熱々の小豆と黒蜜をトッピングしたら出来上がりだ。通常はバターと甘いシロップをかけて食べるのだが、以前、食事処で食べたあんみつの味が忘れられなかったせいか、和風の仕上がりになってしまった。
「おいしそうですけど……さっき昼食を摂ったばかりですし。これ以上、食べてしまったら」
不安そうに自身のふくよかな腹部を見下ろすお佳代を、
「半分はお豆腐で作っているから大丈夫よ」
と安心させる。お豆腐を入れると多少味が淡白になるものの、仕上がりはふんわり、生地にももっちり感が出て、それはそれで美味しい。
バターの油とたっぷりかけた黒蜜で、しっとり濡れたように艶めく生地に、小豆を少量のせて頂く。黒砂糖の甘さとお抹茶の風味が絶妙で、胡蝶はうっとりと目を細めた。緑茶との相性も抜群だ。夢中になって食べていると、お佳代が何かに気づいたように、ふふふと笑った。
「これ、抹茶味のどら焼きに似てますわね」
「母さん、それを言っちゃだめよ」
あえて気づかないふりをしていたのに。
「失礼しました。三時のおやつはお嬢様の嗜好品? ですものね」
「そうよ、身体だけじゃなくて、心にも栄養は必要だもの」
お酒や煙草を嗜む人にとってはお子様だと鼻で笑われてしまうだろうが、胡蝶にとっての嗜好品は甘いおやつと、洋酒の効いたチョコレイトと、苦めのお茶に限る。
「あとで虎太郎にも持って行ってやりましょう。喜びますわ」
「そうね」
現在、虎太郎は実家に帰ってきていて、隣家の農作業を手伝っている。本人は農家を継ぐ気満々で戻ってきたようだが、柳原家所有の農地は三年契約で他家に貸し出されているので、すぐにどうこうできる問題ではないらしい。
「コタ兄さんがこの家を継いでくれて良かったわね、母さんも、これで安心でしょう?」
「飽きっぽい子ですから、期待はしていませんよ。そもそも貧乏暮らしが嫌でここを出て行った子ですから」
そう言いながらも、ここ最近、お佳代は目に見えて機嫌がいい。
「あたくしの老後の面倒は花ノ宮家の方々が見てくださいますから。子どもたちは子どもたちで好きにやればいいんですよ」
けれどお佳代の身に何かあれば、真っ先に駆けつけるのは花ノ宮の人間ではなく――いいえ、そんなことは言うまでもないと思い、胡蝶は微笑んで相槌を打つ。
***
「兄さん、差し入れを持ってきたから、お茶にしましょう」
居間で昼寝をしているお佳代の代わりに、抹茶風味のハットケーキを持っていくと、農作業に没頭していた虎太郎がぎょっとしたようにこちらを向いた。
「胡蝶、おまっ――馬鹿っ、外に出てきちゃダメだろうっ」
「平気よ。だってここ、兄さんしかいないもの」
「……道中、誰かに会ったり、見られたりしてないだろうなぁ?」
「ええ、たぶん」
「たぶんって……お前なぁ」
「お説教するつもりなら、差し入れあげないから」
ツンと顔を逸らすと、虎太郎は焦ったようにこちらに向かってくる。
「わ、悪かった」
「せっかく長い距離を歩いて持ってきてあげたのに」
「なんて気が利くんだ、お前は俺の自慢の妹だよ」
やや皮肉っぽい言い方が気になるが、心が広いので許してあげることにした。
「おっ、うまそうなどら焼きじゃねぇか」
「どら焼きじゃなくてハットケーキよ。あいだに黒蜜と小豆を挟んであるの」
「へぇへぇハットケーキね。ま、腹が膨れりゃなんでもいいや」
「食べる前にちゃんと手を拭いてね、指先が土で真っ黒よ」
「お前、おふくろみたいなこと言うなぁ」
「はい、ちゃんと手ぬぐいも持ってきたから」
次兄の世話を焼きつつ、お茶の準備をしていると、
「あ、狐」
はっとして視線を向けると、見覚えのある黒狐が少し離れた場所からじっとこちらを見ていた。先程からやけに視線を感じると思ったら――胡蝶は笑って手をふるものの、
「あの狐、さてはこのどら焼きを狙ってるな」
虎太郎は警戒したように持っていたケーキを隠す。
「そんなわけないでしょ」
「横取りされる前に食っとけよ、胡蝶。腹に入れちまえばこっちのもんだ」
「……兄さんったら。相変わらず意地汚いんだから」
遠慮しているのか、虎太郎がそばにいる間は、黒狐は近づいてもこなかった。二人分の差し入れを平らげて、虎太郎が農作業に戻っていくと、胡蝶も後片付けをして来た道を引き返す。
「ずいぶんと楽しそうでしたね」
珍しく彼のほうから話しかけられて、胡蝶は驚いて顔を向ける。
気づけばすぐ隣を歩いていて、自然と笑みがこぼれた。
「一眞さんには感謝していますわ。兄を見逃して頂いて」
「……仲がいいんですね」
「そうかしら? 普通じゃありません?」
難しい顔をして黙り込む一眞に、「どうかしまして?」と首を傾げる。
「その、距離感が……あまりにも近すぎる気が……」
「家族ですもの。当然ですわ」
「ですが、実際に血の繋がりがあるわけではないですよね?」
普段なら落ち込むところだが、一眞らしくないと感じた。まじまじと一眞の顔を見上げていると、彼は慌てたように顔を伏せる。
「すみません、ただ貴女があまりにも無防備な顔をされていたので……つい……」
「つい? 何ですの?」
一眞は赤くなった顔を隠すように手を当てると、瞬時に狐に化けて、逃げるように去ってしまった。一体何が起こったのかとぽかんとしていると、まもなくして彼は戻ってきた。
――どうして狐の姿なのかしら?
何はともあれ、家まで送り届けてくれて、感謝する。
「そうだわ、一眞さん、よかったら一緒にお茶でも……」
振り返った時にはもう彼はいなくて、胡蝶は首を傾げながら家の中に入っていく。最近の一眞は少し様子がおかしい――もしかして……いやまさか……と考え事をしていると、
「お嬢様、一人で外へ出てはいけないとあれほど申し上げましたのに」
玄関では仁王立ちしたお佳代が待ち構えていて、「旅先で迷子になったことをお忘れですか」と説教されて、胡蝶はしょんぼりと肩を落とした。




