決着
「た、頼む、命までは取らないでくれ」
嵯峨野邸の敷地内、恥も外聞もなく命乞いをする男――黒須七穂を見下ろしながら、「彼女はどこだ?」と低い声で問う。「お前を殺すのは彼女の無事を確認してからだ」
「お姫さんなら逃げたそうだ」
「嘘をつくな」
「嘘じゃない。使用人の男が姫さんを連れ出して逃げたって……目撃者もいる」
その時脳裏をよぎったのは、胡蝶の兄を自称する男――柳原虎太郎だった。正直、頼りない印象を覚えたので、あまり期待はしていなかったのだが、
「俺をどうこうする前に追いかけたほうがいいんじゃないか?」
一眞は薄く笑って答える。
「ここで見逃せば、お前はまた胡蝶様を狙うだろう」
「俺の仕事は終わった。彼女には二度と関わらないと約束する」
どうだか、と鼻を鳴らすと、七穂は必死に言い募る。
「お前を殺そうとしたのも、彼女を誘拐したのも、そうしろと依頼主に命令されたからだ。俺たちの意思じゃない」
「依頼主の名は?」
「だいたいの察しはついているだろ? このお屋敷の主人、嵯峨野勘助様だ」
「その男なら始末した」
「だろうな、でなきゃ、お前がここにいるわけがない」
恐ろしげに呟き、身体を震わせている。一見追い詰められているようにも見えるが、一度騙されたせいもあってか、一眞の目には、七穂が演技しているようにしか見えなかった。
「蛇ノ目の件で、俺を恨んでいると言ったな」
「ああ、だからこれでおあいこ……貸し借りなしってことで……」
「そうだな、ひと思いに殺してやる」
「ぎゃー、やめてぇ」
がっしり頭を掴んで、首の骨をへし折ろうとした時だった。
「……一眞さんっ」
顔を向けると、息を切らせた胡蝶が、こちらに向かって走ってくる。強い安堵感と同時に愛しさがこみ上げてきて、一瞬だけ殺意を忘れた。
「よかった、ご無事で」
「胡蝶様っ」
なぜか不満そうな顔を浮かべた胡蝶だったが、七穂の存在に気づくと、慌てたように口を開いた。
「一眞さん、いけません。今すぐその方をお放しください」
「……この男を庇うのですか」
無意識のうちに手に力がこもり、七穂が「ひーっ」と今にも死にそうな悲鳴を上げた。
「その方は命の恩人です。こうして逃げられたのも、彼のおかげですわ」
そうなのか? と視線を向けると、七穂は涙目で頷いている。
「なぜ早くそれを言わない」
呆れたように手を離せば、七穂は転げるようにして立ち上がり、一目散に逃げていった。追いかけて再び捕らえることもできたが、一眞はそうしなかった。
「胡蝶様、早くここを離れましょう」
「……胡蝶、と呼び捨てにしてくださらなければ、ここから動かないわ」
気丈に振舞っているものの、目元が赤く腫れている。少し前まで泣いていたのだろう。胸を締め付けられるような痛みを覚えながら、嵯峨野勘助――あの男を始末しておいて正解だったとあらためて思う。
「ところで、貴女を逃がしたという使用人の男は?」
「兄とは少し前に別れました。親兄弟に見せる顔がないからと言って」
そう寂しそうに答える彼女を抱き寄せながら、一眞は足早にその場をあとにした。
***
心配性な乳母のことだ。
てっきり夜も眠れないほど心配かけていると思いきや、
「あら、お嬢様。お早いお戻りで」
出迎えたお佳代の対応はさっぱりしたもので、思わず気が抜けてしまった。どうやら既に一眞が手を回してくれていたらしく、龍堂院邸を出た後、ちょっとした小旅行に出かけたことになっていたらしい。事が公になれば胡蝶の評判に傷が付くと思っての配慮だろう。
――でも、いいのかしら。婚前前に二人で旅行だなんて……。
言い訳として、少し無理があるのではと思ったが、お佳代は完全に騙されているようで、「大丈夫ですよ、お佳代は龍堂院様を信じておりますから。けして、お嬢様に無理強いはなされないと……ですよね? お嬢様」
無理強いって何を? と思ったが、深く追求するとボロが出そうで、「ええ、もちろんよ」と曖昧に言葉を濁す。
「さあさ、早く家に上がってお寛ぎください、ひどく疲れた顔をなさって……すぐにお茶を入れますからね。ところで龍堂院様は? ご一緒ではなかったのですか?」
「今日はもう遅いからと言って、帰られたわ。明日、様子を見に来られるそうよ」
「まあ、なんて羨ましい。あたくしだって若い頃は……あらいやだ、年寄りのこんな話、聞きたくありませんわね」
「いいえ、ぜひ聞かせて」
「でしたら夕食のあとにでも……」
家に帰って、お佳代と話しているうちに、自然と高ぶった気持ちが落ち着いてきて、胡蝶はふわりとあくびをこぼした。一眞と共に嵯峨野邸を逃げ出した後、馬車や汽車を乗り継いで――時には獣の姿に化けた一眞に運ばれたこともあった――何とかここまで戻ってこられたのだが、この短期間で色々なことがありすぎて、心底疲れきっていた。
本当ならすぐにでも自室で休みたいところだけど、
「……豚の角煮」
「あら、食べたいんですか? 豚の角煮」
「それもあるけど……久しぶりに作りたいなと思って。虎太郎兄さんの好物だったから」
「まさか、会ったんですか? あの風来坊に」
詳しいことは話せないので、そのことを心苦しく思いながら、「ええ」と頷く。
「どうせなら連れ帰って下さればよかったのに」
「そうしたかったんだけど、兄さんにも都合があるから」
会話をしながら胡蝶は着替えをすませると、割烹着を手に台所へ入る。
「あの子に都合なんてありゃしませんよ。年中ふらふらしてるんですから」
「母さん、それは言い過ぎよ」
「ですが薄情じゃありませんか、老いた母親の顔も見に来ないで」
ひとしきりぶつぶつと文句を言ったあとで、
「ところであの子、元気にしていましたか? 身なりはどうでした?」
と心配症な母親の顔をのぞかせる。
「変なものを食べて、病気をしていないといいけれど」
「心配しないで、母さん。虎太郎兄さんは昔とちっとも変わっていなかったわ。一眞さんとはぐれて泣いていた私を助けてくれたの」
彼の言う通り、子どもの頃、おやつの取り合いでしょっちゅう喧嘩したけれど、最後は決まって譲ってくれた。辰之助と同じく曲がったことが嫌いで、妹の自分にはとことん優しい……頼もしい兄だった。
「……作りましょうか、豚の角煮」
「そうね、母さん。匂いにつられて、兄さんが帰ってくるかもしれないし」
その数日後に腹を好かせた放蕩息子が帰還するのだが、それはまた別の話だ。
***
町外れにある長屋の一室にて、
「一体、これはどういうことですか?」
帰宅した途端、蛇ノ目に捕まり、七穂は再び窮地に陥っていた。
目の前にはこれみよがしに新聞が並べられ、「大富豪嵯峨野勘助、謎の変死」、「死後、暴かれる大富豪の裏の顔」、「座敷牢に囚われた美しい少女たち」といった見出しが一面を飾っていた。
内心「あちゃー」と頭を抱えながら、息を飲んで蛇ノ目の言葉を待つ。
「勘助様が私の大事な大口顧客と知っていながら、みすみす殺されるのを黙って見ていたと?」
「殺された? あの大富豪が?」
「とぼけても無駄ですよ。君が花ノ宮胡蝶の逃走に手を貸したことも知っています」
「手を貸したなんてとんでもないっ」
まさか身近にスパイが潜んでいようとは――あの偉そうな使用人か、それともちょくちょくお茶を運んできてくれたあの色っぽいの女中さんか――と、内心冷や汗ものだったが、
「俺はただ、上着を忘れてっただけっすよっ」
「その上着のポケットに牢の鍵が入っていたのも偶然ですか?」
「実際に逃がしたのは他の使用人で、俺じゃない」
「確かにあのお屋敷で花ノ宮胡蝶の身内が働いていたのは予想外でした。これは私の調査不足……失態ですね」
――そもそも龍堂院一眞をペットとして差し出したこと自体、間違いでは?
とは口に出して言えない。
まだ彼の死体コレクションに加わるわけにはいかないからだ。
「いいでしょう、既に報酬は頂いていることですし、この件に関しては私にも非があったということで……」
長い説教と、「二度目はない」、「次に同じことをすればコレクションに加える」という脅し文句をくどくどと聞かされた後で、ようやく解放されて、七穂はふうと息を吐く。今回ばかりは反省したものの、また姫さんの作るカレーが食いたいなぁ、などと性懲りもなく考えて、そんな自分に失笑した。
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