きんぴらごぼうが食べたいから
真新しい畳の匂いがする。目を開けた時、自分がどこにいるのか分からなかった。のろのろと上体を起こして、辺りを見回す。どうやら座敷牢に閉じ込められているようだ。広い部屋で、寝室と居間、小さな台所まである。空気がじめっとしているので、おそらく地下だろう。換気用の窓はついているものの、高い位置にあって、外の様子まではわからない。
「私のことを覚えているかな?」
格子越しに話しかけられ、胡蝶は弾かれたように顔を向ける。
案の定、そこにいたのは嵯峨野勘助で、恐怖以上に嫌悪感を覚えた。
「犬畜生にも劣る行為とは、このことを言うのでしょうね」
居住まいを正して、彼を睨みつける。
「貴方のことを心底見損ないました」
「これはこれは……」
勘助は魅入られたように近づいて来ると、
「ずいぶんと肝の据わったお嬢さんだ。それにその目……お父上の目によく似ておられる」
「……お父様に会ったことが?」
「何度か食事を共にしたことがある。私がいると食欲が失せると言って、一切食事に手をつけなかったがな。不快極まりない男だよ」
「お父様を困らせたいのであれば、別の手段を取るべきです。妾の子が1人いなくなったところで、父は痛くも痒くもありませんわ」
勘助は舐めるような視線を胡蝶に向けると、「ますます気に入った」とつぶやく。
「すぐにでも貴女を妻にしたいが、これから出張でね。五日後には戻るから、それまでにここでの生活に慣れておくといい。欲しい物があればそこの紙に書いて、見張りの男か女中に渡しなさい。外には出してやれないが、不自由な生活だけはさせないつもりだ」
勘助が立ち去ると、緊張の糸が切れて、胡蝶はその場に突っ伏した。どうしてこんなことになってしまったのだろう、一眞は無事だろうか――けれど今は彼の無事を信じて、ここから逃げ出す方法を考えなければと頭を切り替える。
――でもどうやって……?
「食事を持ってきましたよ、お姫様。長いこと眠っていたから、お腹が空いているじゃないかと思って」
現れた男を見て、胡蝶はやっぱりと確信を強める。
自分から一眞を引き離した男、黒須七穂。
「結構よ」
「ホントにいいの? 松茸や伊勢海老もあるのに?」
「食べたければ貴方が食べて」
気丈に言い返すと、七穂はやれやれというように首を振る。
「なんでそんなに攻撃的なの? 閉じ込められていることには同情するけど、ここにいれば働かなくても飯が食えるし、贅沢はさせてもらえるしで、ラッキーじゃん?」
「……貴方、本気で言ってるの?」
「本気も本気。あんたがそう思えないのは、お姫さん育ちで贅沢に慣れているからさ。世の中には、親に捨てられて、路上生活しているガキがごまんといるっていうのに。一体何が不満なんだよ」
この手の相手には、いくら口で説明したところで理解してもらえないだろうし、理解されたいとも思わない。胡蝶はぐっと歯を食いしばると、机の前に向かってペンをとった。そこに必要なものを書くと、さっと男に渡す。
「遺書なら受け取らないよ。あんたを死なせたら、俺もただじゃ済まないからね」
「違うわ、よく見て」
しぶしぶ紙を受け取って、読み上げる。
「なになに……ゴボウ、人参、こんにゃくに鷹の爪? 鷹の爪って、鳥の?」
「唐辛子の品種のことよ」
「へぇ、唐辛子ねぇ。で、これで何すんの?」
お料理に決まっているじゃないと、胡蝶は怒ったように言う。
「きんぴらごぼうを作るのよ」
「……なんで?」
「きんぴらごぼうが食べたいから」
「それなら、上の厨房で作ってもらえば……」
「自分で作ったものが食べたいの」
胡蝶は強く言い張った。
「こんなところでじっとしていたら、お腹なんて空かないでしょ」
「悪いけど包丁は渡せないよ」
「だったらあらかじめカットされたものでいいから、お料理をさせて」
何もしないでいたら気がおかしくなるとしつこく頼む。
「お姫さんが、料理ねぇ」
とやや怪訝そうな顔をしつつも、途中から面倒臭くなったのか、最後は七穂も折れてくれた。
「頼むから、火の取り扱いには気をつけてくれよ」
***
――結構図太いぞ、この姫さん。
嵯峨野勘助が出張から戻るまでの間、多額の報酬と引き換えに見張り役を買って出た七穂だったが――ただ座っているだけ金がもらえるなんてこんな美味しい仕事はないと飛びついたわけだが――意外にもこの状況を楽しんでいる自分に、驚いていた。
「お姫さん、今日は何作ってんの?」
「その呼び方をやめてくれたら教えてあげる」
ふかしたじゃがいもをすりつぶしながら、胡蝶はすげなく答える。
「なら何て呼べばいい? 胡蝶ちゃん?」
「やめて、虫唾が走るから」
「ワガママなお姫さんだなぁ」
からかうように笑えば、ギロっと睨まれる。
ただの小娘だと侮るなかれ。
怒っている時の花ノ宮胡蝶は、美人なだけに迫力がある。由緒正しい高位貴族の血によるものか、それとも生まれながらに支配者階級の人間としての素質が備わっているせいか、睨まれるだけで妙な威圧感を覚えるのだ。
――それで目をつけられたわけか。
あの嵯峨野勘助のことだ。
ビビるどころか逆に興奮して、ゾクゾクしたに違いない。
――あの人、気の強い女に目がないからな。
「私は貴方のことが嫌いです」
中身も竹を割ったような性格で、裏表がない。
そういうところも好感が持てた。
「同じ部屋にいるだけでも不愉快だわ」
「……すみません、これも仕事なもんで」
それにしても慣れたもんだなと、胡蝶の手もとを眺めつつ、七穂は感心していた。おそらく作っているのはコロッケだろうが、今から出来上がりを想像して、唾液がこみ上げてくる。昨日のカレーもうまかったし。
「楽しみだな、俺もコロッケ好きなんだ」
「何も貴方に食べてもらうために作っているわけじゃないわ」
「でも一人分にしちゃ多すぎる」
「……つい癖で作りすぎてしまうのよ」
「癖って、普段から料理してるってこと? 貴族の娘がなんでまた……」
「貴方には関係ないでしょ」
それもそうだが、気になるものは気になる。
「お姫さん、料理好きなの?」
すると彼女はほんのり頬を赤くして、小さく答えた。
「……好きよ」
なぜかその様子にキュンとしてしまい、俺ってちょろいなと苦笑いを浮かべる。
「どうせ貴方も馬鹿にしているんでしょ?」
「下手の横好きならね。美味いメシを作る人を馬鹿になんてしないよ」
胡蝶の驚いたような顔を見て、怒っている顔よりこっちのほうが断然いいと感じた。彼女を見ていると、なぜか妹のことを思い出す。妹はいつも何か――貧乏であること、混ざり者であること、酒浸りの父親やそんな父親に逆らえない母親――に対して怒っていたが、料理をしている時だけは楽しそうだった。年頃になると妹は花町に売られていき、その数年後、梅毒にかかって死んでしまった。
貧乏子沢山、親が子どもを売るなんてよくある話――そう頭では割り切ってはいたものの、妹が死んだと聞かされた時は悲しかったし、やり場のない怒りも感じた。任務中に酒をしこたま飲んでしまったのもそのせいだ。
――余計なことは考えるな。
そう自分に言い聞かせるものの、薄暗い座敷牢に閉じ込められた胡蝶を見ていると――これから彼女の身に起こるだろう出来事を想像すると――いたたまれないような、罪悪感めいた感情がこみ上げてきて、七穂は逃げるように目を閉じた。




