チョコレイトがチョコレイトだとは限らない
龍堂院邸からの帰り道、休憩がてら食事処へ立ち寄ると、胡蝶はほっと息を付いた。緊張疲れでぼうっとしている胡蝶のために、一眞がお抹茶と甘い上生菓子を注文してくれる。美しい菊の形をした練り切りを見て、「まあ」と心が和んだ。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、あんなに喜んだ両親を見たのは久しぶりです」
「私も嬉しかったですわ、歓迎して頂いて」
「特にあの煮しめは絶品でした。母がぜひ作り方を教えて欲しいと言っていましたよ」
思いがけない賞賛に、胡蝶は恥ずかしくなって俯いた。
「またぜひいらしてください」
「……はい」
両親との顔合わせは何とか乗り切ったものの、すぐに式を挙げるというわけにはいかない。自分は離婚したばかりだし、何より元夫――清春の喪が明けないうちは一緒に住むことも、婚約パーティーを開くこともできない。それで喪が明けるまでのあいだ、胡蝶は今まで通りお佳代の家でひっそり過ごすよう、侯爵に命じられたのだが、特に不満はなかった。
ただ一つ、不満があるとするなら、
「胡蝶様、どうかしましたか?」
――普通に胡蝶と呼んで欲しいのだけど。
様をつけて呼ぶなんて他人行儀だと、勇気を出して訴えると、
「ですが胡蝶様も俺のことを同じように呼んでいますよね?」
不思議そうに首を傾げられてしまう。
胡蝶は毅然とした口調で「立場が違います」と言った。
「一眞様は私よりも年上ですし、いずれ夫となる方ですもの。呼び捨てになんてできません」
他人行儀ではなく尊敬の意味を込めて呼んでいるのだと言えば、「俺だってそうですよ」と苦笑されてしまい、胡蝶は頬を膨らませる。
「でも……でも」
二杯目のお抹茶を飲みつつ、じっくり話し合った結果、一眞は胡蝶のことを呼び捨てに、胡蝶は一眞のことをさん付けで呼ぶことで決着がついた。胡蝶の粘り勝ちである。
「一眞さん、一眞さん」
小声で練習していると、一眞は顔を赤くして、何ともいえない表情を浮かべていた。自分の強情さに呆れてしまったのだろうかと心配していると、
「そこにいるのは龍堂院じゃないか、久しぶりだなぁ」
声をかけてきた男を見て、胡蝶は妙な違和感を覚えた。つり上がった目に薄情そうな薄い唇――お佳代がこの場にいたら歌舞伎風の美男子だと言って騒ぎそうだ――彼とは初対面であるはずなのに、以前から見知っているような気がしてならないのだ。
「軍の士官学校で一緒だったろ? まあ、俺のことなんて覚えちゃいないだろうが」
一眞はじっと男の顔を見返すと、「覚えている」と答えた。
「黒須七穂だろ。実力はあるのにいつも試験で手を抜いていた、なぜだ?」
一瞬だけ虚を突かれたような顔をした七穂だったが、
「……買いかぶり過ぎだ」
すぐにとらえどころのない、ヘラヘラとした笑みを浮かべる。
「本番に弱いだけだよ」
「そう言って相手を油断させるのが君の常套手段だった。今は何をしているんだ?」
「軍はやめて、知り合いの仕事を手伝ってる。運転手みたいなもんかな」
「それはもったいない」
一眞は本心からそう言っているようだった。
「君は優秀な諜報員だったと聞いている。人心掌握術に長け、初めて会った相手でも簡単に心を開かせてしまうと。それが君の混ざり者としての能力なのか?」
「……もしかして、俺の個人情報ってダダ漏れ?」
途端、不安そうな表情を浮かべる七穂に反して、一眞は珍しく興奮しているようだ。昔の知人に会えたことがよほど嬉しいのだろうと、胡蝶は微笑ましく感じた。
「昔、君を俺の隊に入れて欲しいと上に掛け合ったが断られたことがある」
「まあ俺、あんまり素行良くなかったし。任務中にしこたま酒飲んで、停職処分食らったこともあるしさ」
言いながら七穂はちらりと腕時計を見る。
「引き止めて悪かったな、仕事中か?」
「いや、今日は休み。ただちょっと、これから行くところがあってさ」
それからおもむろに胡蝶を見ると、
「すみません、奥さん、少しの間だけ旦那さんをお借りしてもいいですか?」
突然話を振られて、胡蝶はきょとんとした。
しばらくして、言われた意味を理解すると、
「まあ、奥さんだなんて」
今度はもじもじしてしまう。
「え、何? そんなに仲良さげなのに、ご結婚はまだ?」
「ええ、つい先日、婚約したばかりで……」
「うわぁ、だったら俺、お邪魔虫だ。すみません、今すぐ消えますから」
「俺に用があったんじゃないのか?」
立ち去りかけたところで一眞に呼び止められ、七穂は足を止めた。
「相談したいことがあったんだけど、次の機会でいいよ」
「連絡先も知らないのにどうやって次会うんだ?」
それもそうだと、彼はぽんと手を叩くと、
「でも俺、仕事であちこち転々としてるから、家にほとんどいないんだよね」
「……その相談というのは、長いのか?」
「いや、すぐ終わる」
だったら――と、一眞は胡蝶を見る。
「少し、ここでお待ち頂けますか?」
「ええ、私のことはお気になさらず、行ってください」
「すぐに戻ります。黒須、外で話そうか」
二人が外へ出ていくと、胡蝶はこっそり店員を呼んでメニュー表を持ってきてもらった。上生菓子一つでは全然もの足りない。本当は色々と注文したかったのだが、一眞の前だからと我慢していたのだ。
「あん蜜とチョコレイト、珈琲もお願いできるかしら」
「はい、ただいま」
こんなところを一眞にでも見られたら、幻滅されはしないだろうか、食い意地の張った女など自分の妻にはふさわしくないと――そんな心配は、たっぷり餡の乗ったあん蜜の登場で綺麗に消えてしまった。
――ああ、なんて綺麗なの。
賽の目にカットされたぷるぷるの寒天、ところどころに散りばめられた赤えんどう豆に、色鮮やかな果物、可愛らしいまん丸お団子も添えてあって、まるで食べる芸術品だわと胡蝶は感動していた。けれど次第に、眺めているだけでは満足できず、たっぷりと黒蜜をかけて頂く。
――餡の甘みと果物の酸味って、意外に合うのよね。
「お待たせしました、チョコレイトと珈琲です」
珈琲は特に問題はないが、「これがチョコレイト?」と思わず確認してしまう。
「はい、チョコレイトです」
てっきり、洋酒入りの甘いチョコレイト、固形物が出てくると思い込んでいた胡蝶は、まさか飲み物――ココアが出てくるとは思わず、軽く驚いてしまう。
――でも確かに、原料は同じカカオだものね。
結果として、飲み物を二つも頼んでしまったが問題はない。まずは苦い珈琲で口直しをして、砂糖をたっぷり入れたココアを味わえばいいだけだ。せっかくなのでサンドイッチも頼もうかと考えていると、
「申し訳ありません、お客様。店が混んできたので相席してもよろしいですか?」
そう店員に訊ねられ、胡蝶は深く考えずに了承した。一眞が戻ってきたら、どうせすぐに店を出るだろうと考えて。けれどすぐに後悔することになる。なぜならそこに現れたのは、
「まあ、奥様。奇遇ですわねぇ、こんなところでお会いするなんて」
彼女のことは忘れもしない。
派手な着物を着た美しい女性――元夫の愛人、瑠璃だった。




