不穏な空気
しとしとと降る雨の中、つり目の男はシャベルを手に、せっせと土を掘り起こしていた。埋められたばかりの土は柔らかいが、水分を吸っていてずしりと重い。ある程度の深さまで到達すると、ようやく目的のものが現れる。
それは死体だった。
青白い肌の、中年男の死体。その上、大きな獣に引きちぎられたような有様で、四肢がバラバラ、頭部まで切断されている。
「これはまた……ずいぶんと派手にやられましたねぇ、蛇ノ目様」
ここからは手作業のほうが良さそうだとシャベルを放り出して、少しずつ土を取り払う。死体を傷つけないよう、慎重に穴から取り出し、片腕、片足、胴体――といったように広げた布の上に並べていく。最後に切り取られた頭部を持ち上げると、
「迎えに来るのが遅すぎです、七穂」
閉じられていたはずの目が開いて、じっと男を見返していた。
七穂と呼ばれた男は驚くことなく、飄々と肩をすくめてみせる。
「これでも急いで引き返してきたつもりなんですけどねぇ」
男は蛇ノ目専属の運転手であり部下だった。黒狐の混ざり者――龍堂院一眞が到着すると同時に身を隠し、密かに逃げおおせていた。
「上司を置いて逃げる馬鹿がどこにいますか」
「馬鹿はひどいなぁ」
へらへら笑って悪びれない男に「はあ」と蛇ノ目はため息をつく。
「あの化け物相手に、俺が勝てるとお思いですか?」
「どうあがいても無理でしょうね」
「でしょ? 蛇ノ目様だからご無事で済んだものを」
「……これが無事な姿に見えますか?」
「またまたぁ、ご謙遜を。どうせすぐ元通りになるくせに」
言っているそばから修復は始まっていて、バラバラになった死体がくっついていき、たちどころに元通りになる。
「右手がない……どうやら持ち去られたようですね」
「修復できます?」
「しかたがない、代替品で何とかしましょう」
「ああ、それでいつも気色の悪い死体をコレクションしてるんすね」
面白がる七穂を無視して蛇ノ目は立ち上がり、服についた土を払う。
「今回はさすがにダメかと思いました」
「珍しいですね、蛇ノ目様が弱音を吐くなんて……」
「龍堂院一眞、彼は非常に厄介です」
「でしょうね。なんせ先の大戦で活躍した英雄の息子ですから」
「……君とは同期のはずでは?」
「俺のことなんかきっと覚えちゃいないですよ」
方や公爵家のエリート、方や孤児院出身の成り上がり。
接点といえば、同じ混ざり者同士ということくらいか。
――しかもあいつは狐で俺は狸。
相性も最悪。
「ところで、これからどうします? 花ノ宮胡蝶、諦めますか?」
「……馬鹿を言わないでください」
「なら続けるんすね。けど、同じ手は通用しませんよ」
「龍堂院一眞さえいなければどうとでもなります」
「いなければ……って、そこが一番難しいとこだと思うんすけど」
「やり方は君に任せます」
「うわっ、無茶ぶりきた」
「働かざるもの食うべからず、ですよ」
「へぇへぇ」
「私はしばらく眠って体力の回復に努めます。さすがに疲れました」
「果報は寝て待てってやつっすね」
「あの男相手に、君一人では荷が重すぎるでしょうから、六津や五倫も連れて行きなさい」
「四翅姉さんは?」
「彼女には頼みたいことがあるので」
「頼みたいことって? 添い寝とか?」
「下世話な詮索はやめて、さっさと仕事に取り掛かりなさい」
面倒くさそうな顔で立ち去ろうすると七穂に、「あ、そうそう」と思い出したように蛇ノ目は言う。
「掘り起こした穴はちゃんと埋めていってくださいね」
「……おかんか」
「今、何か言いましたか?」
「いいえ、ボス。ただちに穴を埋めたいと思います」
「よろしい」
***
幸せ過ぎて食事が喉を通らない、という話はよく聞くものの、胡蝶は違った。好きな人と想いが通じ合って浮かれてはいたし、そのせいで食欲もわかなかったが、料理はしたかった。特にお腹が空かない時は時間をかけて料理をした。あえて手の込んだものを作ったり、休憩を挟みながらちょこちょこ料理したりしていると、自然とお腹が鳴って、生唾がこみ上げてくる。
今作っているのはもつ煮込みで、もつの臭みを取るには結構な時間と手間がかかる。それでも出来上がりの、昆布出汁で作ったとろみのついたお味噌汁に、しょうがやにんにく、ごま油の香りがかすかに漂ってきて、つまみ食いせずにはいられない。
「もつは小さめにカットしておいたから」
「助かりますわ。あたくしの歯では、なかなか噛み切れなくて」
「上質で新鮮なモツならそんな心配しなくていいのだけど」
とある老舗料理店で食べたモツ鍋のモツは、口に放り込んだ途端、じゅわーと脂身が溶けて広がっていき、それほど噛まなくてもすんなり飲み込めた。もちろん味も絶品だ。
しかしお佳世はそんな話を聞くやいなやぶるっと身体を震わせて、
「そんなもの食べたらお腹を壊してしまいますわ」
恐ろしげにつぶやく。
「貧乏育ちで贅沢品には慣れていないもので」
「……母さんったら」
それで牛肉が苦手なのだろうか。
訊ねると「理由は他にもあります」と声をひそめて言う。
「子どもの頃、熊に襲われた牛を見たことがあるからですわ」
「そ、そうなの」
そういえばこの辺の山には熊が出没するスポットがあった。鹿と狸以外、胡蝶は見かけたことはなかったが、銃声音は何度も耳にしたことがある。おそらく猟師が熊を追い払うなり、捕らえるなりしたのだろう。
「腹部に大きな穴が空いていて、目は虚ろ……あんなもの一度でも見たら、牛を食べようなんて思いませんでしょう? 内蔵の柔らかな部分だけ食べ散らかして、ホントむごいことを」
「でも母さん、昔熊肉を食べたことがあるって言ってなかった?」
「ええ、ええ、食べましたとも。熊への恐怖心を取り去るためにね。あまり美味しくはありませんでしたけど」
お鍋の中でグツグツと煮えるモツを眺めながら、本当にむごいことをしているのは人間のほうではなかろうかと、つい真剣に考え込んでしまった胡蝶だったが、頭を使いすぎたせいで「ぐぅー」とお腹が鳴った。
「……ご飯にしましょうか?」
「そうですね、お腹も空きましたし、早く頂きましょう」