じゃがいもの塩煮と甘い告白
その日の晩、お佳代に早く休むように言われたものの、昼間たくさん眠ったせいか、変に目が冴えてしまい、胡蝶はこっそり台所へ忍び込んだ。特にお腹がすいているわけでもなかったが、料理をして気持ちを落ち着かせたかったのだ。幸い、戸棚を開けると、小さなじゃがいもを大量に見つけた。
――これで何を作ろうかしら。
すぐに思いついたのがじゃがいもの塩煮だった。皮を剥いて作る人もいるが、胡蝶は皮付きのまま調理するのが好きだった。じゃがいもの芽には毒があるので皮も同様に危ないと思われがちだが、正しい知識を持ち、きちんとした下処理をすれば問題なく食べられる。そういえば、じゃがいもの皮にも栄養があるのだから無駄にしてはいけないと、子どもの自分に教えてくれたのは誰だったか?
――思い出した、父さんだわ。
じゃがいもの塩煮は父の大好物で、それでよく、母が作っていた。胡蝶が初めて作った料理も、じゃがいもの塩煮だった。調理法がとても簡単で、子どもの自分にもできそうな気がしたのだ。それなのに自分は砂糖と塩を間違えてしまい、つまみ食いした父にものすごい顔をさせてしまった。ピンポン玉サイズのじゃがいもを水で丁寧に洗いながら、胡蝶は昔を思い出してくすくす笑った。
『父さんはなぜ母さんと結婚したの?』
『村で一番の料理上手だからさ』
おかげで毎日、家に帰るのが楽しみだとお酒を片手に顔をほころばせていた。思い返せば、自分が料理に興味を持つようになったのも、父のこの言葉が起因しているのかもしれない。密かに、父のような優しい男性と結婚することを夢見ていたから。不純極まりないと、胡蝶は苦笑いを浮かべる。
じゃがいもを洗い終えたので、ふきんで水気をとる。まず鍋に油を入れて、じゃがいもに絡めるように炒めたら、水やお酒、醤油や砂糖などをくわえる。どうせなら甘いほうがいいと思い、砂糖は多めに入れた。煮立ったら火を弱くして、じゃがいもが柔らかくなるまでひたすらコトコト煮込む。時たま、じゃがいもをひっくり返したりしつつ、皮がシワシワになるのを待っていると、
「良かった、まだ起きていらしたのですね」
勝手口からひょこっと一眞が顔をのぞかせていた。
既視感を覚える光景に、胸がほっこりする。
「玄関からお越し下さればいいのに」
「……寝ているところを起こしては悪いと思いまして」
中に入る許可を求められ、「どうぞ」と答える。
「安静にしておられなくてよろしいのですか?」
「身体はもう何ともありません。じっとしているほうが辛くて……」
「胡蝶様には大変申し訳ないことをしました」
おもむろに頭を下げられて、きょとんとしてしまう。
「貴女が誘拐されたのは俺の責任です。俺が貴女のそばを離れたせいだ」
「まあ、そんな風におっしゃらないで」
心底、苦痛に満ちた眼差しを向けられて、慌てて口を挟むものの、
「……理由をうかがっても?」
我慢できずに訊いてしまう。
「私が、何かお気に触るようなことでもしまして?」
「問題は貴女ではなく、俺のほうにあります」
覚悟を決めたらしく、一眞は何とも情けない顔を浮かべていた。
「貴女を警護対象として見られなくなったもので」
「それはどういう……」
意味ですか、と言い終える前に、胡蝶は鍋を見た。
いつの間にか、じゃがいもの皮がしわしわになって、水気が飛んでいる。
あやうく焦がすところだったと、慌てて鍋をゆすって残りの水気を飛ばす。
「ところで先ほどから何を作っておられるのですか?」
「じゃがいもの塩煮ですわ。父の好物ですの」
「……侯爵閣下の?」
「いいえ、柳原の……といっても、もう亡くなっているのですが」
胡蝶にとって家族と呼べる人間は、紫苑も含め、この家の両親と乳兄弟たちだけだ。
「上手く出来ているといいのだけど」
「……一つ、頂いても?」
いつもは遠慮して、何も食べようとしないのに。どういう心境の変化だろうと不思議に思いつつも、つい浮かれてしまい、「どうぞ」と言って小皿を差し出す。
「ぜひ感想をお聞かせてください」
神妙な面持ちでぱくりとそれを一口で食べると、
「…………っ」
眉間に皺を寄せて、何とも言えない顔をしている。
その表情を、胡蝶は一度だけ見たことがあった。
――父さん……。
どうやらまた、やってしまったらしい。
試しに一つ食べてみると、案の定、ものすごく塩辛かった。
「私ったら、お砂糖とお塩を間違えたみたい」
「……珍しいですね、胡蝶様がそんなミスをするなんて」
「人間ですもの。ですから御堂様のこと、あまりお叱りにならないでくださいね」
さりげなく言えば、一眞は困ったように笑う。
「そのじゃがいもの塩煮、どうするおつもりですか?」
「もったいないとは思いますけど、食べられたものではありませんし、捨てますわ」
「捨てるくらいなら、俺にくれませんか?」
「まだ材料はありますから、すぐに作り直します」
「いいえ、それが食べたいんです」
やけに強い口調で言われて、不覚にもどきどきしてしまった。
「どうして、そこまで……」
「食べたいんです、貴女の作ったものなら何でも……例えそれが失敗作でも」
内容はともかく、一眞らしい、実直な言葉だった。彼が自分に何を伝えようとしているのか、なぜ顔を赤くして、自分を見つめているのか、理解した瞬間、胡蝶は胸が苦しくなって、今にも逃げ出したい気分だった。けれどそれは恐怖や不安からではなく、ただただ、恋愛ごとには不慣れで、恥ずかしかったからだ。
「俺も貴女のことが好きだから……好きなんです、胡蝶様のことが」
その瞬間、胡蝶の中で何かが弾けた。上位貴族の娘として、感情を表に出さないよう、厳しく躾けられた胡蝶だったが、その反動からか、これまで必要以上に押さえつけていた感情が高まり、暴走して、自分でも思いがけない行動に出てしまった。
――パァンっ。
「……なぜ打つのですか?」
「だって、だって……」
うまく言葉にできず、胡蝶は彼の顔を両手に挟むと、赤くなった頬に口づけた。
「私も、一眞様のことが好き――大好き」
二人の唇が重なるのに、そう時間はかからなかった。