逃げられるわけもなく……
柳原家の近くを歩いていると、夕食時のおいしそうな匂いがして、七穂は思わず足を止めた。
ちょっと首を伸ばして覗いてみると、
「お袋、そんなにバタバタするなよなぁ、ここに座ってゆっくりしてろよ」
「そうそう、また膝が悪くなっちまうぞ」
柳原家の息子たち――長男と次男の声が響いてくる。
一見、老いた母親を気遣っているようにも聞こえるが、
「何言ってるんだい。あたしがじっとしてたら、片付くもんも片付かないだろ」
「俺らがあとで片付けとくからさ」
「そうそう」
「そんなこと言って、いつも忘れて寝ちまうくせに」
「そん時は胡蝶にやらせればいいだろ」
「だな、いつも家にいるんだから」
偉そうなことを言って、未だ母親に甘えているようだ。
家族のいない七穂にとっては理解できない感覚であり、無性に苛立ちを覚える瞬間だった。
食い扶持を減らすために子どもは売られ、働けなくなった老人は山に捨てられる。
七穂の育った農村ではそれが当たり前だったからだ。
まもなく、パタパタと廊下を走る音がして、
「お嬢様、もうあのバカ息子たちに手料理を振舞う必要はありませんよ。感謝するどころか、お嬢様のことを女中扱いしてっ」
お佳代の怒った声が響いてきた。
彼女は声がよく通るので、大きな声を出すと、離れた場所にいても十二分に聞こえる。
「あんなんだからうちに嫁がこないんですよっ」
カッカする乳母に対して「兄さんたちの前では言わないでね、気にしてるんだから」と鈴を転がすような美しい声が応じる。
「それに卯京兄さんのほうはうまくやっているじゃないの。お琴さんみたいないいお嫁さんに恵まれて」
「どこがです? 完全に尻に敷かれているじゃありませんか」
言えてらぁと七穂は忍び笑いを漏らす。
「いつも嫁の顔色をうかがって、情けないったら……」
「当然でしょ。お琴さんは妊娠してるんだから。いたわってあげないと」
「だからこそですわ、お嬢様。卯京はもうすぐ父親になるんですよ」
感情が高ぶっているらしく、お佳代は矢継ぎ早に続ける。
「父親というのは一家の大黒柱。嫁の顔色をいちいち伺っているようでは務まりませんわ」
「だったら私にではなく、卯京兄さんにそう言ったらどう?」
「あの子は早くからあたくしの手を離れていますし、今さら口うるさく言っても嫌がられるだけです」
しょぼんとするお佳代に、
「かかあ天下こそが夫婦円満の秘訣だと言ったのはかあさんでしょ」
胡蝶は慰めるように言うものの、
「時と場合によりますわ」
お佳代はきっぱりと答える。
「かあさんったら、実はお琴さんのことが気に入らないの? 卯京兄さんが結婚した時はあんなに喜んでいたのに……」
「そんなことはありませんわ、気の強そうな、しっかりした嫁だと思っています。ちょっと歳は行き過ぎていますけど」
「……お琴さんの前では絶対に言わないでね」
「何をですか?」
あきれた、とばかりに胡蝶はため息をつくと、
「かあさん、今度一緒に卯京兄さんの家に行きましょう。そこでお琴さんの仕事を手伝うの。分かった?」
「行くならお嬢様一人で行かれてください。あたくしは遠慮します」
どうしてと不思議がる胡蝶に「まだ膝の調子が良くないからですわ」とお佳代は堂々と言ってのける。
「だったらすぐに病院へ行きましょう」
「あら、病院へ行くほどではありませんわ」
けろりと答えるお佳代に、
「かあさんはいつも卯京兄さんの家に行く話になると膝が悪くなるのね」
訝る胡蝶だったが、
「赤ん坊が生まれても来ないつもり?」
「その時は這ってでも行きますわ。初孫ですもの」
珍しくはしゃいだようなお佳代の声を聞いて、
「いいわ、分かりました。今度も私一人で行くわ」
腑に落ちない様子で答える胡蝶だった。
かくいう七穂もお佳代の感情がいまいち理解できず、
――人間の感情ってのはそう単純なもんじゃないからなぁ。
好き嫌いで割り切れるものではないのだと、母としての立場、姑としての立場、女としての立場――様々な立場でものごとを考えるからごちゃごちゃしてくるのだと納得しかけたところで、
「堂々と盗み聞きするとはいい度胸だな」
凶悪な気配を感じて、七穂は息を飲んで振り返る。
いつもなら奴の気配を感じた時点で尻尾を巻いて逃げるのだが、つい話を聞くのに夢中になってしまい、接近を許してしまった。
「いけねっ、ぼうっとしちまって。仕事の疲れが出たかな」
わざとらしく肩を揉む七穂だったが、なにやら殺気のこもった視線を向けられて、落ち着かない様子で辺りを見回す。
「実は用があって来たんですが……今日はやめときます」
池上水連の件でネチネチ言われる前に、手土産――いなり寿司――を持ってご機嫌伺いに来たのだが、
「ちょうどいい、こっちもお前に用があったんだ」
低く、淡々とした声。
どうやら怒っているらしい。
――俺、なんかやらかしたか?
思い当たる節が多すぎて特定できない。
七穂はすぐさま足の速い動物に化けると、その場から逃走を図った。




