胡蝶、立ち上がる
とりあえず外ではなんだからと水連を家に招き入れ、いくつか質問を挟みつつ、じっくりと話を聞き終えた胡蝶は、
「事情は分かったわ。水連さん、とりあえずこの件は私に預けてくれないかしら?」
不思議そうな顔をする水連に、
「私に考えがあるの。少しの間、ここで待っていて」
そう言って胡蝶は立ち上がると、庭先に出て、「一眞さん、出てきてちょうだい。話があるの」と彼を呼んだ。
しばらくして、きまり悪そうな顔で出てきた彼に、
「家には入れないわ。水連さんが怖がるから」
彼はギクッとしたように胡蝶を見ると、
「……まさか貴女まで、俺の浮気を疑っているんですか?」
「いいえ、微塵も疑ってなどいないわ」
その言葉にホッとしたような顔をしつつも、
「ではなぜ、怒っているのですか?」
「そりゃあ怒るわよ。私に何度も隠し事はしないと誓わせておいて、自分はどうなの」
「ちょっと待ってください。一体なんの話ですか」
「とぼけないで。私たちの会話は耳に入っていたはずよ。外へ出て、あんな大声で話していたんだもの」
今思い出しても恥ずかしいと熱くなった頬を押さえつつ、「彼女は誰なの?」とさらに詰め寄る。
「水連さんに近づいてきた、混ざり者の女性のことよ。もちろん一眞さんは知っているのでしょう?」
「……答えられません」
「どうして?」
喉に物でも詰まったかのように黙り込む一眞に、
「もしかして、私に言うなと命令されているの?」
ピンとくるものがあり、胡蝶は拳を握りしめる。
「また紫苑なの? だったら、ただじゃおかないわ。あの子は私の家族をなんだと……」
怒りに震える胡蝶に、
「いいえ、違います。今度ばかりは殿下ではありません」
一眞はすぐさま口を開く。
「なら、誰なの?」
「……俺の口からは言えません」
頑なまでに口を閉ざす一眞を見て、胡蝶はこっそり微笑んだ。
仕事人間でまじめな彼をこれ以上いじめるのは良くないと思い、
「だったら答えなくて結構よ。その代わり、今から手紙を書くから、一眞さんが責任をもって届けてちょうだい」
「それは構いませんが、どちらに?」
胡蝶はにっこりして答える。
「皇后陛下のところへ」
***
「まぁ、胡蝶。わざわざ会いに来てくれるなんて嬉しいわ」
簡素な恰好で胡蝶を出迎えた皇后は、そば付きの女官にお茶の支度をさせると、
「どうぞお座りなさい。そこの貴女も……お名前は、確か池上水連さんといったかしら」
胡蝶の後ろに隠れるようにして立っていた水連は、名前を呼ばれて、こわごわと前に出る。
「……は、はい、陛下」
「そんなに怖がらないで。なにも貴女をとって食おうとしているわけではないのだから」
ただでさえ緊張している水連がその言葉でさらに怯えるのを見た胡蝶は、「叔母様、どうぞお手柔らかに」と、とりなすように口を挟む。
皇后はおほほと機嫌よく笑うと、
「それで、話というのは何かしら」
胡蝶は背筋を正して皇后に向き合うと、慎重に口を開いた。
「叔母様は例の記事をご覧になりまして? その、水連さんと一眞さんが一緒に写っている……」
「ええ、もちろん。もしかしてその件で彼女を連れてきたの?」
皇后はおかしそうに目を細めると、水連をちらりと見、
「貴女、写真うつりが悪いのねぇ。実物はこんなに綺麗なのに」
困惑する水連の代わりに胡蝶はずばりと言った。
「叔母様、私は一眞さんの不貞を微塵も疑っておりません。ですからこれ以上、水連さんを困らせるのはやめてください」
皇后は微笑みを浮かべながら首を傾げると、
「わたくしがどう彼女を困らせたというの? 出会ってまだ数分も経っていないじゃない」
「水連さんのところへ女性を――御堂様を送り込んだのは叔母様でしょう?」
水連に接触してきた女性の正体が御堂木乃葉だと分かったのは、幸い水連に絵心があったおかげだった。
彼女の描いた似顔を見た瞬間、その場にいたお佳代ですら、間違いなく御堂木乃葉だと断言した。
しかし皇后は、
「御堂? さぁ、知らないわ、そんな人」
堂々と白を切る。
「そもそもなぜわたくしを疑うの? 龍堂院殿か、紫苑の仕業かもしれないし、単なる教育の一環かもしれない」
少しも動揺することなく優雅にお茶をすすりながら、皇后は続ける。
「それに、その女性が本当に木乃葉なのかも怪しいところだわ。実は彼女に化けた男の混ざり者っていう可能性もあるわけでしょ」
そこですかさず、「叔母様」と胡蝶は驚いた声を上げる。
「叔母様はいつから御堂様のことを『木乃葉』と呼び捨てにするほど親しくなられたのですか?」
皇后の表情が一瞬だけ固まったのを胡蝶は見逃さず、「なんて残酷なんでしょう」とつぶやく。
「よりにもよって御堂様を選ぶなんて――彼女が一眞さんのことをどれほど強く想っておられるのか、叔母様はご存じないのですか? それとも、そのことを知っていてなお彼女を選んだのですか? でしたらあまりにも……」
「あの、お嬢様、話が見えないのですが……一体どういうことですか」
小声で水連に訊ねられ、胡蝶はふうっと言葉を切ると、
「叔母様はね、御堂様を使って、私と貴女を争わせようと企んでいたのよ」
水連はハッと息を飲み、皇后は慌てたように口を挟む。
「それは考えすぎよ、胡蝶。ただちょっと……貴女に危機感を持たせようと思っただけ」
無言の胡蝶に見つめられて、皇后は観念したのか、
「分かった、認めるわ。そうよ。木乃葉を送り込んだのはわたくしよ。だってあの子は元娼婦でしょう? 男女のあれこれに詳しいから、たまに呼び出して、話を聞かせてもらっているのよ」
いさぎよく罪を認めると、胡蝶の手を掴んで懇願する。
「胡蝶、悪かったわ。お願いだから怒らないで」
「……本当に悪かったとお思いですか?」
「ええ、もちろん」
胡蝶は機嫌を直したようににっこり微笑むと、
「でしたら、私のお願いを一つだけ聞いてくださいます?」
皇后はため息をつくと、
「いいわ。話してみて」
「その前に、叔母様には水連さんのことをもっとよく知っていただきたいわ」
今日はそのために彼女を連れてきたのだと前置きし、彼女の不幸な境遇を皇后に話して聞かせた。
そしてここにいたるまでの経緯も簡単に説明した。
話が終わると、
「一つ気になることがあるのだけど、貴女、胡蝶の乳兄弟のことを本当はどう思っているの? 名前は確か……」
「虎太郎兄さん」
「そう、その虎太郎のことを」
胡蝶が以前から気になっていて聞けないことを、叔母はずばりと訊ねた。
さすがの水連も相手が皇后とあっては、答えないわけにもいかず、
「いい人だとは思います。ですが私はまだ、最初の主人のことが忘れられず……あの人以外の男性なんて考えられないんです」
正直な気持ちを打ち明けた。
「死んだ人のことをまだ引きずっているなんて、自分でも情けないとは思うんですが、彼が今でも近くにいる気がして」
「分かるわ、その気持ち」
亡き娘のことを思い出したのか、皇后の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
そのことに心を動かされた水連もまた、涙をこらえるように俯いてしまう。
「まだ若いのに……大変な人生を送ってきたのね」
「……はい、陛下」
「愛し方は人それぞれよ。最初の御主人のことを今も強く想っているのなら、その愛を貫く覚悟はある?」
不思議そうに顔を上げる水連に、皇后は告げる。
「言い換えれば、わたくしに仕える気はあるのかと聞いているのよ」
「陛下、それはどういう意味でしょう」
「わたくしの下で働けば、それが叶うの。他人に卑下されることも、望まぬ結婚を押し付けられることもないわ。幸い、貴女には混ざり者としての能力があるのだから、それを生かすべきよ」
ようやく皇后の言葉を理解した水連は慌てふためき、
「身に余る光栄です。ですが私は、今回の件でお嬢様に大変なご迷惑をかけてしまいましたし、黒須さんに言われたこともろくにできず……」
自信がないのか、徐々に声が小さくなっていく。
そんな水連の声にかぶせるように、皇后は言った。
「わたくしはね、水連さん。能力の高さよりも忠誠心を重んじるの。貴女は自分のことを顧みず、真っ先に胡蝶に危険を知らせてくれた。評価に値するわ」
珍しく顔を赤くした水連は助けを求めるように胡蝶を見るが、
「お話を受けるべきよ、水連さん。一眞さんの下で働くより、叔母様のほうが遥かによくしてくださるわ」
彼女の背中を押すべく、胡蝶も言葉に力をこめる。
長い間、考え込むように黙っていた水連だったが、
「……分かりました」
すっと立ち上がり、皇后の前にひれ伏すと、震える声でこう答えた。
「陛下のご期待に応えられるよう、誠心誠意努めてまいります。この御恩は、一生忘れません」
皇后は満足げに頷くと、胡蝶のほうをちらりと見、囁くような声を出す。
「これで許してくれるわよね、胡蝶」
胡蝶は答えず、ニコニコしながら、いつまでも二人を眺めていた。
終わり
ここまでお付き合い頂き、いつもありがとうございます。
念願の百話達成です。長かったー。疲れたー。
長編作品を余裕で書かれている方を心から尊敬します。
この調子で、その後の話も頑張ります。
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四馬㋟でした。




