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夜の校舎はひっそりと静まりかえっていて、まるで大きな怪物が横たわっているみたいだった。外灯はあちこちにあるんだけど校舎の中は真っ暗で、その対比がまた何とも不気味な感じ。昼間とのあまりの違いに、うすら寒くなる。
「なんだ、怖いのか?」
校舎を見上げたまま立ち尽くしてる僕を見て、疾が意地の悪い笑みを浮かべる。本当は怖気づいてたんだけど、疾がからかうように言うからムッとした。
「そんなんじゃないよ!」
思わずムキになって声を張り上げたら反響がすごかった。僕が慌てて口を塞ぐのを見て、疾はケラケラ笑ってる。
「そんなに笑わなくてもいいじゃないか」
「ごめんごめん。武の反応があまりにも可愛かったもんで」
「誠意が感じられないよ」
「まあまあ、こんな所で時間を潰してないで早く入ろうぜ」
僕がそっぽを向いてもお構いなしで、疾はさっさと昇降口に向かった。こんな所に置いて行かれても困るから、僕も慌てて後を追う。昇降口はロックされてたんだけど、それは疾が慣れた手つきで解除した。
「もう始まってるな」
下駄箱を抜けて廊下に出るとすぐ、疾が周囲を確認しながら独り言を零した。外灯の明かりがぼんやりと照らし出している廊下は静かで、ぱっと見た感じでは人気がない。何が始まっているんだか知らないけど、訊く勇気もなかったから僕は黙ってた。
「武、急ぐぞ」
そう言い置いて、疾は校舎の奥に向かって歩き出した。僕は物陰から何かが出てくるんじゃなかいかってビクビクしながら歩いてたんだけど、少し先を行く疾はそんなこと気にしてもいないみたい。外階段を上がって二階の正面入口から校舎に入った僕達は途中で階段を下りて、一階の東端まで行った。もう行き止まりっていう所でようやく疾が足を止めて、僕を振り返る。
「着いたぞ」
疾が目前にあるドアを指差したから何となく見てみたけど、ここって何のための部屋なんだろう。一階は教室もないし、この辺りには来たことがないので分からなかった。ドアが閉まってるから内部の様子を見ることは出来ないけど静まり返ってるから、人がいるようにも思えない。
「ここから地下に降りるんだよ」
まだ何も言ってないのに、疾は僕の考えを読んだみたいに説明を加えてくれた。言うが早いか行動も起こしていて、彼はロックを解除して扉を開ける。仕種で僕を促して、疾のそのまま中へと姿を消してしまった。
疾に続いて中に入ってみると、そこは外からの明かりも差し込まない暗闇だった。窓がないのかカーテンが引かれているのかは分からないけど、こう暗くっちゃ何も見えないよ。なんだか怖くなってきて後ずさろうとしたら、不意に扉が閉ざされた。廊下からの明かりがなくなると本当に真の闇で、試しに持ち上げてみた自分の腕さえ見えない。
「は、疾……」
「ここだ」
不安になって声を上げたらすぐに返事があったのでホッとした。でも暗すぎて、疾がどこにいるのか分からない。遠近感もつかめないから動くに動けなくて、僕はその場で文句を言うことにした。
「暗くて何も見えないよ」
「じき慣れるさ。それに、その前に明るくなる」
疾が応えるのとほぼ同時に、足下からいきなり光が溢れてきた。それまで自分の腕も見えなかっただけに目を焼かれて、痛みに思わず瞼を下ろす。
「大丈夫か、武?」
どこかから疾の声がしたので、瞬きをくり返しながら少しずつ目を慣らしてみる。視界が開けてくると、疾が案外近くにいたことを知った。彼はしゃがみこんでいて、疾の近くの床から光が放たれている。それが地下への階段、なんだね。そんな風に隠してあるなんて、見るからに怪しいよ。
先に入れって言われたから、僕は恐る恐る階段に足を踏み入れた。入口は一人分くらいの大きさしかなかったんだけど階段は少しずつ広くなっていて、もうちょっと降りれば疾と並んで歩くことが出来そうなくらいになっている。僕の後から降りてきた疾は地上へつながる扉をしっかりと閉ざしてから階段を下り出した。
「疾……この先は何?」
階段を下りるにつれて少しずつ大きくなってくるざわめきを不安に思って、僕は隣を歩いている疾の顔色を窺いながら問いかけた。疾は一瞬考えるような表情を見せた後、僕を見ないまま口を開く。
「麝香みたいな媚薬を扱ってる所……とだけ言っておこうかな」
疾は何でもないことのように言ってのけたけど、僕は愕然とした。危ない所には行かないって言ったのに!
「そんな話聞いてない!」
「大丈夫」
「ちょ、疾!」
僕が抗議の声を上げても疾はまったく耳を傾けてくれない。疾が強引に腕を引くから蹴躓きそうだ。鳥彦といい疾といい、細い体のどこにそんな力があるのだろう。それも単に、僕が貧弱なだけなんだろうか。
成す術なく引きずられているうちに、ついに目的地に到着してしまった。階段を下りたその場所は広大な地下空間になっていて、煌々と灯る明かりの下では一様に制服姿の生徒達が行き交っている。昼間でも、こんなに多くの生徒が集まってる姿は見たことないよ。
「疾じゃないか」
「今日は姿を見せないかと思ってたところだぞ」
照明の下に出てすぐ、上級生らしき人達が声をかけてきた。彼らは疾に親しげな笑みを見せている。こういう所で名前が通っているのもどうなんだろうと思いながら、僕は一歩引いたまま成り行きを見守った。
「今日はよそうと思ってたんだけどね。いい機会だから見せておこうと思って」
上級生達と話していた疾が、不意に僕を振り返った。それで、上級生達の視線も僕に注がれる。彼らの目には好奇が露わになっていたけど、いつか僕を襲おうとした人達みたいな陰険さは感じられなかったので少しホッとした。
「これが噂の編入生か」
「上玉だな」
噂の編入生は言われ慣れてるからいいけど、ジョウダマって……。その意味を理解したくなくて、僕は上級生達から顔を背けた。
「あれ? 嫌われたか?」
「大丈夫、慣れてないだけだ」
疾の科白は、おそらく僕をフォローしてくれたものなんだと思う。僕にとっては慣れる慣れないの問題じゃなくて『異常』なんだけど、でも、この学園ではそういう問題なんだよね。僕が口を開けないままでいる間も、疾と上級生達は話を続けていた。
「でも、いいのか? こんな所に連れて来たりしたら危ないんじゃないか?」
「大丈夫。僕が一緒だし、適当にみつくろって退散するつもりだから」
「購入するのか」
「そ。今日はどんなのが入ってた?」
「鳥彦に聞いてみるんだな。その方が早い」
「彦が来ているのか?」
「ああ、さっき会った。まだその辺にいるんじゃないか」
「ありがと。探してみる」
お礼を言うだけでは終わらず、疾は上級生達の頬に軽く口づけた。ほんのアイサツくらいのものだったんだろうけど僕は驚いてしまって、思わず身を引く。僕の動作が大袈裟すぎたのか、上級生達は呆れたように息を吐いた。
「このくらいでこの反応か……。ほんと、初なんだな」
「ま、しっかりやれや。じゃあな」
同情しているみたいな調子で言って疾の頭を軽く撫でると、上級生達は行ってしまった。どんな表情をしていいのか分からないまま、僕は疾を見る。視線に気がついて顔を傾けてきた疾は、僕の顔を見るなり苦笑した。
「なんて表情してるんだよ」
顔は笑っていたけど、疾の声音はちょっと寂しそうだった。疾でも、あんなことするんだ。僕がそう思ってしまったのを、彼は知っているのかもしれない。ごめん、疾。