8
誰かに体を揺さぶられて、それで目が覚めた。やけに重い瞼を上げてみると視界に知った顔が映る。
「疾……」
名前を呟いたら、それまで浮遊してた意識が少しずつ戻ってきた。ここは……僕の部屋だ。ベッドの上にいるみたいだけど、どれくらい眠ってたんだろう。
「まったく、緊張感がないにも程がある」
枕元で屈みこんでいた疾は呆れた表情で言って、ため息をつきながら体を起こした。僕もベッドの上で起き上がってみたんだけど、まだ頭がボーッとしてる。寝すぎのせいなのか、ひどく体がだるかった。
「僕があれほど忠告しても聞かないところを見ると、どうやら武は見知らぬ奴にいいように弄ばれてもいいらしいな」
「……何のこと?」
疾が皮肉げに言うから顔を傾けてみたけど、僕の頭はまだ彼の言うことを理解するほどには覚醒してないみたいだ。疾はもう一度ため息をついて、それから言葉を続けた。
「寝ぼけた顔をして、一体いつまで寝てるつもりだよ。鍵が開いてなかったらさらに何時間も寝続けただろうね」
鍵が開いていた? 当たり前だ。鳥彦が出て行ったのは僕が眠った後のことだし、僕は彼が持っていた中和剤のおかげで眠り続けていたから鍵を閉めている余裕なんてなかった。
「眠り姫は王子のキスでないと完全に目覚めることが出来ないらしいな」
僕が応えなかったのをいいことに、疾はからかうような調子で言って大袈裟に肩を竦めて見せた。僕のことをさんざんロマンチスト呼ばわりしたくせに、そういう疾こそロマンチストだ。まだ顔の筋肉がうまく動かなくて、僕はたぶん無表情で疾を見上げた。
「なんだよ? してほしいのか?」
真顔に戻った疾が顔を近づけてくるから、僕は反射的に叫んでベッドの中で後ずさりしてしまった。体を引いたせいで壁に背中をぶつけてしまって、痛い。可能な限り遠ざかった僕が壁に背中をはりつけたまま睨むと、疾はひとしきり笑った後で再び真顔に戻った。
「それはさておき、調子の方はどうだ? 麝香は抜けたか?」
疾に言われて、そういえば調子が悪かったんだと思い出した。頭は重いけど頭痛はしないし、体もだるいことはだるいけど自分の重さを支えられないほどじゃない。さっき叫んだから、声も戻ってるみたいだ。
「うん、大丈夫みたい」
「そっか。何か食べるか?」
「ううん。ありがとう」
そういえば今朝から何も……いや、もうちょっと前から食べていないような気がするけど、空腹は感じてない。ただ喉は渇いていたので、疾を促してリビングへ移動することにした。僕はその足でキッチンへ行き、マグに水を注いでからリビングへ戻る。疾は相変わらずコーヒーを飲んでいた。
「飲みすぎるといつか体を壊すよ」
「分かってるよ。でもダメなんだ」
「ダメって……何で?」
「中毒なのさ」
そう言って、彼は苦笑した。僕は中毒になるほど好きなものってないから、疾の言っていることはよく解らない。だけどそれ以上何かを言うつもりはないみたいで、疾はさっさと話題を変えた。
「それより、なんだって麝香なんか使われたんだ?」
訊かれるだろうとは思ってたけど、いざ疾の口からその科白を聞かされるとドキドキする。心の中で平静平静とくり返しながら、僕は予め考えていた言葉を棒読みした。
「分からない。副会長さんに会ったことは覚えてるんだけど、それ以外は何も覚えてないんだ」
玉田さんのこと言った途端、疾はピクリと眉を上げた。それから、鳥彦と同じように眉根を寄せながら僕を見据えてくる。何か言われるかもとヒヤヒヤしたけど、疾はすぐに視線を逸らした。
「麝香は、強力な媚薬だ。記憶操作されたものは何を訊いても無駄だからな」
疾の零した独白はまるで、僕に問わないよう自分自身に言い聞かせているようだった。その姿に僕の知らない疾を垣間見たような気がして、複雑な気持ちになる。彼の顔を曇らせているものは何なんだろう。
「……今日は出掛けないんだね」
重い空気に耐えられなくなって話題を変えたけど、思えば疾と夜を過ごすのは久しぶりのことだった。疾も同じことを思ったのか、一度空を仰いでから笑みを向けてくる。
「そうだな。たまには武と夜を過ごすのもいいね」
そう言った疾の顔からは陰が消えていて、僕もホッとした。疾がいつものようにおどけた表情をしているので、僕もしかめっ面を作る。
「疾は一回外出すると僕が起きてる間には帰って来ないじゃないか」
「武の寝るのが早いんだよ。それに武はいつでも、僕が気がつくと寝てるじゃないか」
反論出来なくて、思わず頷いてしまった。確かに僕はどこでも寝るし、よく寝てる。
「ほらみろ。その通りだろ?」
「じゃあ、今日はずっと起きてるよ」
疾の口調が挑戦的だったので、気がついた時にはそんなことを口走っていた。まるで僕のその言葉を待っていたみたいに、疾はニヤリと笑って見せる。
「本当だな?」
「……何、企んでる?」
「別に。無理しなくてもいいんだぜ?」
「そのくらい出来るよ」
「オッケー。じゃあ、出掛けようか」
「えっ!?」
「ちゃんと起きてられるんだろ? あんまりやばい所には連れて行かないから、大丈夫」
「ちょ、待ってよ」
「さっき、そのくらい出来るって言ったよな? まさか怖気づいた?」
「う……」
黙るしかなくて、僕は口をつぐんだ。悔しいことに疾は僕の扱いを心得てる。乗せられて起きてるよって言ったことはすごく後悔してたんだけど臆病者と思われるのも嫌で、僕はけっきょく疾に了承を伝えてしまった。
「よし、決まり。三十分後に出るからシャワーでも浴びておけよ。服装は必ず制服な。じゃあ、また後で」
一方的に色々言って、疾は私室へ引き上げて行った。仕方がないので僕も私室へ戻る。風呂場とは別にシャワールームが私室についているので、言われた通りにシャワーを浴びた。
五分も経たないうちにシャワーが済んでしまったので、とりあえず湿気を逃すために窓を開けた。この時期の夜風は気持ちよくて、髪もすぐ乾いてしまいそうだ。窓辺に行ったら机の上に置きっぱなしにいていた本に目が留まって、少し時間もあったのでページをめくってみる。内容をよく確認しないでタイトルだけで借りてみたけど、あらすじを読んだ感じでは、どこかの国の貴族の恋物語みたいだった。本の中にはロマンチストと言われても仕方がないようなクサイ科白が並べられている。もしかして疾、この本の内容知ってたのかな。もしそうだとしたら、あんなこと言ってたのに読んだことがあるってことだよね。ロマンチックな恋物語と疾がどうにも結びつかなくて、僕は密かに笑ってしまった。
「武?」
軽いノックの音と共に疾の声が聞こえてきたので、僕はハッとして時計を見た。自分でも気付かないうちに本を読み始めちゃってて、時間のことすっかり忘れてた。もう約束の三十分を過ぎてしまっていたので、慌ててタオルを外して制服に着替える。急いでリビングへ出ると、疾は待ちくたびれた様子でソファに腰を下ろしていた。
「遅い」
「ごめん」
僕が私室から出てくるのを見るなり立ち上がった疾は、そのままさっさと玄関の方へ歩き出した。あんまり気が進まなかったけど、仕方がないので僕も従う。部屋を出て、疾がまず向かったのはエレベーターホールだった。ちょうど九階で待機しているカゴがあったので、僕達はすぐ乗り込む。狭い空間に閉じ込められるとふと、疾から香ってくる匂いが気になった。
「何かつけてる?」
「なにを今更」
僕が尋ねると疾は呆れた顔を傾けてきた。その言い方からすると、普段も何かつけてたんだ。全然気がつかなかったよ。
「もしかして、今まで気付かなかった?」
僕が素直に頷いて見せると疾は微かに眉根を寄せた。でもそれも一瞬のことで、疾はすぐ呆れ顔に戻る。
「呆れた。鈍いにも程があるよ」
「そんなこと言われたって……」
「ま、いいさ。それより、初めて夜の外出をする気分はどうだい?」
呆れ顔から一変して、疾はニヤニヤしながら尋ねてくる。この表情は完璧に遊んでるよね。少しムッとしたので、僕は疾から顔を背けながら答えた。
「快適だよ」
本当は、何処に連れて行かれるのかとハラハラしてる。それにエレベーターのせいで耳も痛くて、気分は最悪だ。
「強がりはよせよ。またエレベーターのせいで耳が痛いんだろ?」
「こんなのすぐ治るよ」
「意地になるなって。僕が悪かったよ」
疾はやけにアッサリと悪ふざけを詫びて、僕の顔を自分の方へ傾けた。疾の手が、僕の両耳を庇うみたいに優しく覆う。たったそれだけのことなのに何故か、痛みも違和感も消えていった。
「何したの?」
「別に。特別なことは何も」
不思議に思って訊いてみても、結局はいつもの感じで流されてしまった。納得がいかなかったので眉をひそめながら見てると、僕の視線に気がついた疾はまたおちゃらけた空気を作り出す。
「実は僕には超能力があるんだよ」
「またそうやって……」
こうなってしまえば粘ったところで結果は同じだ。どうせまともに取り合ってもらえないなら疲れる前に追求を諦めようと思って、僕は息を吐いた。
「深く気にすることはないさ。ほら、もうエレベーターも止まったし」
疾の言う通り、エレベーターは目的階に到着して動きを止めていた。一階でエレベーターを降りた僕達は、そのまま寮の外へ出る。もう目的地が決まってるみたいに歩き出す疾の姿に不安を煽られて、僕は彼の後ろに着いて行きながらも声を上げた。
「何処へ行くんだよ?」
「校舎」
「校舎?」
答えてもらえないかもと思っていただけに、疾があっさり答えてくれたのは意外だった。でもそれ以上に意外だったのが、疾が口にした場所だ。夜の校舎なんかに一体何があるっていうんだよ。
「昼間と夜で、あそこはずいぶん違うんだぜ?」
僕を振り返った疾は、そう言って不敵な笑みを浮かべて見せた。どう違うのか知らないけど、あんまり想像もしたくない。でも僕には疾を止めることが出来ないから、結局は彼の後に着いて行くしかないんだ。だけどやっぱり気分は重くて、自然と歩調まで遅くなる。僕がいつまで経っても隣に並ばなかったからか、先を歩いていた疾が急に足を止めて振り返った。
「武、そんなノロノロ歩いてたら夜が明けてしまうよ」
ついに、疾に手を引かれてしまった。疾の歩調は速くて、どんどん校舎が迫って来る。僕は彼の売り言葉を買ってしまったことを、今更ながらに後悔していた。