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目を開けたら私室の天井が映った。いつものように無意識に起き上がろうとしたんだけど、体に力が入らなくてベッドに逆戻りしてしまう。何で、こんなに頭が痛いんだろう。それに、横になってるのにひどい眩暈がする。
「武、朝だぞ」
軽いノックの音がして、いつものように疾が僕の部屋に入って来た。だけどベッドの所まで来た彼は、いつものように小言を言うこともなく僕を見下ろしてる。応えることも出来ずに、僕はベッドの中で疾を迎えた。
「……武、一体何をやったんだ?」
問いかけてくる疾の声はいつになく険しい響きのものだった。答えようと思って口を開いたんだけど、声が出ない。僕の様子を見た疾はため息をついて、枕元にしゃがみこんだ。
「今は何を訊いても無駄か。声なんか出せないだろ?」
何をするにも億劫で、僕はひどく緩慢に頷いて見せた。何か気になることがあるような気がするんだけど、うまく考えがまとまらない。
「初めから麝香とはな……無茶をしたもんだ」
疾があらぬ方向を睨みながら零した独白に、僕は急に不安を煽られた。ジャコウって何? 僕がこんなことになってる原因を疾は知ってるの?
「そんな不安そうな表情をするなよ。大丈夫、今日は体が言うことをきかないかもしれないけど、すぐに回復するから。声の方は今日中には治ると思う」
そう言って、疾は苦笑しながら立ち上がった。ゆっくり休むことと自分は出掛けることを言い置いて、彼は行ってしまう。最後に私室の鍵をしっかり掛けろと念を押されたから、僕は気力を振り絞ってベッドから抜け出した。なんとか、歩くことは出来るみたいだ。だけど思うようにはならなくて、ドアの所に行くだけなのにひどく時間がかかった。鍵を掛けただけで疲れきってしまったけど、ふと顔を傾けた先にあった物が気になって、ベッドに戻る前に机の方に寄る。またナビに、新着メッセージがあることを示す表示灯が灯っていた。
『アノフロッピーハ貴君ヘノ贈物ダ。アレヲ使エバ貴君ノ知リタイ情報モ手ニ入ル』
これが、新着メッセージの内容だった。差出人は相変わらず不明。誰だか知らないけど、親切なことで。でも僕はもう、二度とあのフロッピーを使うことはないだろう。
昨夜の出来事を、忘れたわけではなかった。AOの委員に連行されて副会長さんの所へ連れて行かれた、そこまではハッキリと覚えてる。だけど副会長さんと何を話したのかは全然覚えてない。この不自然な記憶の欠落と体の不調は、たぶん無関係ではないはずだ。結局あの人も生徒会、そういうことなんだね。
副会長さんには初対面で好感を抱いただけに、裏切られたみたいで悲しかった。それと同時に強引なやり口が腹立たしくなってきて、机の上に置かれたままだったフロッピーを引き出しの奥へしまいこむ。その後ベッドに戻っても、あれこれと考えてしまって眠れなかった。一番の問題はやっぱり、疾のあの態度だ。もしかしたら何もかも見透かされてしまったかもしれない。声が出るようになって、追求されたらどうしよう。
ベッドの中で懸命に言い訳を考えていると、玄関が開く音が聞こえたような気がした。さっき出て行ったばかりなのに、疾がもう戻って来たのかな。そう思ったんだけど、ドアの外から聞こえてきた声は別人のものだった。
「武、ちょっと開けてくれないか」
意外にも、そう言ったのは鳥彦だった。僕は驚いて、思わずベッドから飛び下りる。彼がベルも鳴らさずに入ってくるなんて珍しい。いや、初めてじゃないかな。
鍵を外してドアを開けると、そこには制服姿の鳥彦が立っていた。やっぱりと言うか普通の様子じゃなくて、鳥彦の表情はいつになく険しい。
「疾ならいないよ」
声が出なかったことを忘れて口を開いたら、かなり擦れてはいたけど言葉になった。僕の声がガラガラだったからなのか、鳥彦は顔をしかめる。
「いや、君に用があるんだ」
無断で入ってきたうえに疾を訪ねて来たのでもない。なんだか嫌な予感がするけど、その内容には想像が及ばなかった。正直に言うと立っているのも辛くなってきたので、私室に鳥彦を招き入れる。鳥彦が横になっていいと言ってくれたので、僕はその言葉に甘んじた。
「……麝香を、使われたんだね」
僕と向き合うようにして枕元に座り込んだ鳥彦は眉根を寄せながら独りごちた。ジャコウ……さっき疾もそんなこと言ってたけど、それって何なんだろう。
「武、昨日の夜は何処へ行っていたんだ?」
ためらうような間があった後、鳥彦は僕の目を真っ直ぐに見ながら尋ねてきた。何で、そんなことを鳥彦が知っているんだろう。それは分からなかったけど、これで彼が僕を訪ねてきた理由はハッキリした。でも、答えるわけにはいかない。
「覚えてない」
「昨夜、AOの委員と君が一緒にいるのを偶然見かけたんだ」
「……疾も一緒に?」
「その時は僕一人だった。ちょうど疾と別れて寮に戻ろうとしてた時だったから」
疾には見られていなかったと知って、僕は少しホッとした。でも今の問題は、この場をどう切り抜けるかだ。何が何でも僕から答えを引き出したいのか、鳥彦は追求の手を緩めない。
「武、一体何をしたんだ」
「別に。僕は何もしてない」
「武、必要なことなんだ。ちゃんと答えてくれ」
だんだんと、鳥彦の口調と表情が鋭くなる。だけど嘘を言ってるわけじゃないし、ここは僕も譲れない。
「本当に、僕は何もしていない」
「武、」
「しつこいな」
鳥彦があんまりにも食い下がるから、ついイライラして起き上がった。帰ってもらおうと思って体を起こしたんだけど、その直後、背中と肩が鈍く痛む。我に返ると鳥彦の厳しい顔が間近にあった。僕の肩に置かれてる鳥彦の手に、想像もつかないくらいの力がこめられる。痛くて、僕は顔を歪めた。
「武、大事なことなんだ。話してくれないか」
最後通告のように告げた鳥彦の顔は、僕の見知っている少年のものじゃなくなっていた。普段の彼からは想像も出来ない乱暴な行為にも驚きだけど、射るように見据えてくる瞳の暗さにゾッとする。その瞳を見ていると、彼がわざわざ疾の留守を見計らって訪ねて来た意味が解ったような気がした。
鳥彦は本気だ。僕が答えなかったら、どうなるだろう。怖かったけど試してみたいような衝動に駆られて、僕は真っ向から鳥彦を睨みつけた。
「何で君に答えなくちゃいけないんだ」
「……武……」
弱々しく呟いた刹那、鳥彦は傷ついたように表情を歪ませた。その表情の変化があまりにも痛ましくて、取り返しがつかないことをしてしまったような罪悪感がこみ上げてくる。
「鳥彦……」
どうしていいか分からなくて、鳥彦の肩に手を置いた。彼の手はすでに僕から離れ、力なくベッドに落ちている。僕が言葉を続けられないでいると、鳥彦はゆっくり顔を上げた。
「僕は君に、手荒な真似をしたくないんだ」
……ずるいよ、鳥彦。そんな表情を見せられて、そんな風に言われたら、僕が折れるしかないじゃないか。
「昨夜、KINGDOMにアクセスしちゃったんだ」
「KINGDOMに……」
僕がけっきょく話を始めると、鳥彦は一瞬にして顔を強張らせた。ホストコンピューターであるKINGDOMに一般の生徒がアクセスした、その意味はあまりに重い。だけど僕がそう思う以上に、鳥彦は過敏になっているみたいだ。詳しく事情を説明しろって急かされたから、僕はため息をついてから話を続けた。
「昨日、特別棟で君と会っただろう? あの時、僕は呼び出されていたんだ」
「誰に?」
「分からない。ただ、渡す物があるから空教室に来いって言われた」
「何で呼び出されたんだ?」
「僕の個人用のナビ。それで、行ってみたけど誰もいなかった。イタズラかと思って帰ろうとしたら、四階の教室のブラックボードに来る時はなかったはずの文字が書き込まれてた。それに従って調べてみたら、フロッピーが出てきたんだ」
「それがKINGDOMにアクセス出来る代物だった?」
「そう。何のフロッピーだか確かめようと思って、部屋のコンピューターに挿入して起動させた。そしたら、プログラムが勝手に……」
「アクセスしたんだね?」
「すぐAOに連行されたよ。それで、君の見た光景になるわけだ」
「何処に連れて行かれた?」
「……よく分からないけど、たぶん生徒会関連の施設。副会長さんに会ったから」
「玉田さんに? だったら、間違いなく生徒会の居住区だよ。生徒会の役員は滅多にそこから出て来ないから」
僕にというよりは自分に言い聞かせてる感じで、鳥彦は考えをまとめているようだった。もう自分から話すこともなかったので、僕は黙って鳥彦の言葉を待つ。
「麝香が絡んでる時点で生徒会が関わってるんじゃないかと思ってたけど、まさか玉田さんが……」
しばらくの沈黙の後、鳥彦は独り言のように呟いてから僕に視線を傾けてきた。
「武、君は玉田さんとどんな話をしたんだ?」
「覚えてない。これは本当だ」
「分かった。たぶん、麝香のせいだな」
そしてまた、鳥彦は何かを考え込む。だけど僕も鳥彦に尋ねたいことがあったから、彼の考えを中断させるために口火を切った。
「鳥彦、僕も君に訊きたいことがある」
僕から問い返されることも予想していたらしく、鳥彦は無言で頷いた。
鳥彦や疾は、僕が知りたいと思っていることを詳しく知っている。けれど、それを彼等に訊くことは出来ない。余計な詮索をして彼等に突っ込まれてしまったら、器用じゃない僕は本当のことを隠し通せなくなるだろう。だから情報は必ず自分で入手しなければならない。そういう事情があるので、今は話題にのぼっていて差し障りのない事柄についてだけ尋ねることにした。
「ジャコウっていうのは、何なの?」
「簡単に言えば媚薬だよ。ここではそういったものが一般に出回っているからね。ただ、一般の生徒はそれほどきつい媚薬を所持することは許されていない。麝香は生徒会だけが持つことを許された強力なものなんだよ。催眠効果なんかもあって、記憶処理なんかに使われることが多い。どんな形状だった?」
「……甘ったるいにおいがした」
「そう。だったらすぐに体も楽になる。媚薬の効果を中和する免疫剤を持ってるから、少しあげるよ」
そう言って、鳥彦は制服のポケットから小瓶を取り出した。茶色の液体が透明な瓶いっぱいに詰まっていて、薬瓶みたいだ。僕が受け取ろうと手を伸ばすと、鳥彦がやんわりと制した。
「これは即効性の睡眠薬でもあるんだ。他に訊きたいことがあったら、先に言っておいてくれ」
鳥彦に言われてちょっと考えたけど、これ以上彼に訊くことはなさそうだ。首を振ると、鳥彦は僕の手に小瓶を握らせた。
「ほんの少し口唇を濡らす程度でいいんだ。過度に含むとしばらく眠り続けることになるから気をつけて」
注意に従って、僕はほんの少しだけ茶色い液体を口にした。フタを閉めた小瓶を鳥彦に返して、僕はそのままベッドに潜る。
「最後に一つだけ聞かせて。このことは疾に言うの?」
「武が嫌だと言うのなら言わない」
苦笑した鳥彦に、僕はもう返事をすることが出来なかった。強烈な睡魔が急激に襲ってきて、もう目も開けていられない。
「手荒な真似をして悪かったね」
最後に鳥彦のそんな声を聞いたような気がしたけど半分以上眠りに引き込まれていたから、彼が本当にそう言ったかどうかは定かじゃない。