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「武」
軽いノックの音と共に疾の声が聞こえてきて、それで僕は目を覚ました。僕が気付いた時には何度か呼びかけた後だったみたいで、ドアが開いて疾が姿を見せる。ベッドの中から言葉になってない返事をすると、疾が電気をつけた。
「また鍵を掛け忘れてるじゃないか」
疾に呆れた顔で言われて、そういえばと思い出した。私室の鍵を掛け忘れたまま、どのくらい寝てたんだろう。僕が目をこすりながら起き上がると疾はため息をついた。
「本当に無用心だな。外出するのに気が引けるよ」
「どっか行くの?」
「そ。彦が来たら僕は出掛けてくるから、武はちゃんと鍵を掛けて用心すること」
「分かった」
昨夜のこともあるし、今度は忘れないようにしなくちゃ。僕がそう思った時、ちょうど鳥彦が来たみたいで来客を知らせるベルが鳴った。
鳥彦はあれだけ疾と親しいのに無断で入って来ることはしない。こっちに来る時は必ず、来客を知らせるベルを鳴らすのだ。その理由はもしかして、僕がいるせいなんだろうか。いつも思うんだけど、そうだったら申し訳ないような気がする。
「じゃあ、行くから」
「うん。いってらっしゃい」
疾が去って行くのを、僕は軽く手を振って見送った。疾達はすぐ出掛けたみたいで、リビングの方はしんとしてる。とりあえずベッドから下りて、疾に言われた通り私室の鍵をかけた。内側から掛けるタイプの鍵だから、これで今夜は安心だ。
一息ついてから窓の方を見ると、外は真っ暗だった。もう簡単には寝れないだろうし、これからどうしよう。いつもこの、疾がいない夜の時間は持て余しちゃうんだよね。他にすることもないから勉強でもしようかと思ったところで、閲覧室で本を借りたことを思い出した。
本は確か、机の上に置いた気がする。そう思って机に近寄ってみると、普段は端に退けてあるナビが机の中央に陣取っているのが目に留まった。そういえば、今朝使ったんだっけ。それを思い出したら途端に、あのフロッピーのことも思い出した。椅子に掛けてあった上着のポケットを探ってみると、硬質な手触りがある。上着は再び椅子に掛けて、僕は取り出したフロッピーを観察した。
何の変哲もない、ただのフロッピー。少なくとも外装は。でもラベルも何もないから、何のデータが入っているのかは分からない。都合のいいことに疾も外出したから、これの中身を確かめるために部屋を出ることにした。使うのは寮の各部屋に備え付けられてるコンピューターだ。変なウイルスとか入ってたら困るし、何よりナビはいざという時のためにとっておきたかった。
「壊れないでよ」
それだけを願いながら、コンピューターにフロッピーを挿入する。このコンピューターにしてもナビにしても、壊した場合には罰則があったはずだ。嫌だなと思いながらも興味の方が勝ったので、僕はフロッピーのデータを開いてみた。
データを開くなり、いきなりパスワードを要求された。入力しろって言われても、そんなの知らないよ。何か適当に打ち込んでみようかとも思ったんだけど、僕が行動を起こす前に変化は訪れた。キーボードに触ってもいないのに勝手にパスワードが入力されて、OKという文字が出た後にすごい勢いで英数字が流れ出す。何、これ。
めまぐるしく変わっていく画面を呆然と見ていたら、やがて英数字の流れがピタッと止まった。静止した画面には『KINGDOM』の文字。それを見て、僕はとっさにフロッピーを抜いてコンピューターの電源を落とした。まずい、すごくまずいよ。不慮の事故とはいえ、KINGDOMにアクセスしちゃった。学園の中枢であるホストコンピューターへのアクセスは完全なる違反行為。この部屋のナンバーもしっかり通知されちゃってるだろうし、何らかの罰則をくらう。
電気もついてないリビングで僕が一人ビクビクしてると、不意に来客を知らせるベルが鳴り響いた。ドアホンに向かうことも出来ずに、僕はフロッピーを握ったまま硬直する。ベルが鳴ったのは一回だけだったけど、すぐに玄関が開く音が聞こえてきた。疾……だったらいいなぁと思ったのも束の間、リビングに進入してきた人が電気をつける。そこにいたのはもちろん疾じゃなくて、見たことのない小柄な少年だった。
「共に来てもらう」
固まってる僕に目を留めた少年は無表情のまま、事務的な口調で命令を下した。こうなってしまったらもう、何を言っても無駄だ。僕が立ち上がると抵抗の意思なしと判断したみたいで、少年は踵を返す。仕方がないので、僕は彼の背中を追いかけることにした。
E号棟の901号室を出ると、少年はエレベーターホールには向かわずに非常階段のドアを開けた。僕は初めてだったんだけど彼は慣れている様子で、さっさと階段を下って行く。廊下みたいに照明がついてないから足下が暗い。下から吹き上げてくる風も、まるで生き物みたいで気持ちが悪い。それに気を抜くと階段を踏み外しそうで、僕は慎重に地上を目指した。
軽やかに階段を下って行った少年の姿はだいぶ前に見えなくなっていたんだけど、彼はちゃんと地上で僕を待ち構えていた。急げって怒られるかとも思ったんだけど、彼は何も言わずに歩き出す。寮の明かりが少しずつ遠ざかって行くのが、すごく心許ない気分にさせた。何処に連れて行かれるのか知らないけど、あんまり重い罰則は勘弁してほしい。そもそもKINGDOMにアクセスしちゃったのは僕のせいじゃなくて、あのフロッピーのせいなんだから。
「止まれ」
何とか言い逃れが出来ないかと考えてたら、少年が声を上げた。立ち止まって改めて周囲を見てみると、いつの間にか重々しい鉄製の門が出現してる。門の内部には二階建ての白い建物があるのが見えるけど……何だろう、この場所。学園に編入してから自分なりに歩き回ってみたけど、こんな建物があったなんて知らなかった。
どうやらこの門の内部に連れて行かれるみたいで、少年はポケットから取り出したバッヂを警備システムにかざした。夜の門を不気味に照らし出しているライトに一瞬だけきらめいた金色の輝きは確か、生徒会の下部組織に身を置く者の証。あのバッヂを与えられた者は階級に応じて、一般の生徒が立ち入ることの出来ない生徒会関連の施設に出入りすることが許される。ということは、ここは生徒会関連の施設なんだ。
ゆっくりとゲートが開くと少年が僕を振り返った。それはただの確認だったみたいで、彼は口を開くことなく門の内部へと歩を進めて行く。重々しい鉄の門と、それに護られた果ての見えない白い建物が妙な圧迫感を漂わせていて、僕は今さらながらにとんでもないことをしたんだと実感した。だけど重くなった僕の足取りには無関心の少年はどんどん先へ進んで行く。後にしてきたゲートもすでに閉ざされていて、もう戻ることも出来ないみたいだ。
白い建物の入口は木製の二枚扉になっていて、そこで足を止めた少年がまた警備システムにバッヂをかざす。ゲートの時はそれだけで済んだみたいだったけど、今度は監視カメラに向かって話しかけていた。彼が口にしていたのは『AO-00430』という番号。AOは確か生徒会が下した決断を実際に執行する組織の略称、だったような気がする。その辺りのことは詳しく調べられなかったから不確かな情報ではあるんだけど。
しばらく待っていると、やがて扉が自動的に開いた。木製なのに自動って、どういう仕組みなんだろう。その疑問は建物の中に入って閉ざされた扉を振り返ってみても、解決しなかった。先を行く少年がさっさと行ってしまったので、僕も慌てて後を追う。こんな所で迷子になったら出られなくなるかもしれなくて怖かった。
たぶん大理石だろう外観がすごかったから中もすごいのを想像してたんだけど、建物の内部は意外と普通だった。もちろん部屋数や廊下の広さなんかは想像を絶してたけど、観賞用の物が何もないからすごくシンプル。養育院でさえ植物や絵が飾ってあったりしたけど、ここは本当に何もない。そもそも、人が生活する場所じゃないのかもしれないね。でも厳重な警備に護られてるここは、おそらく生徒会関連の施設。わざわざそんな場所に連れて来られたってことは、生徒会直々に処罰されるんだろうか。自分の意思で行動を起こした結果なら仕方ないと思うけど、不慮の事故で連行なんて不本意だよ。
僕が胸中で文句を零してると、前方で少年が立ち止まった。彼はまた豪奢な二枚扉をノックして、さっきの番号を告げてる。すると部屋の中から声が返ってきて、それを受けた少年が静かに扉を開けた。中へ入るよう促されたから、僕も渋々彼に続く。部屋の中はかなりの広さがあったけど、応接用のソファとテーブル、それに執務机と棚が一つ置いてあるだけのシンプルな内装だった。執務机に座っている人を見て、僕は小さく驚きの声を上げる。
「どうしたんだい?」
AOの少年に柔らかく問いかけたのは、あの閲覧室で会った副会長さんだった。
「違反行為をした者を連行しました。罪状はAAAです」
少年が告げたAAAっていうのがどれだけ重い罪なのか僕には分からなかったけど、副会長さんがすぐに頷いてみせた。副会長さんはその後、僕を一瞥してからAOの少年に視線を戻す。
「ご苦労さま。後は僕がやるから下がっていいよ」
「はい。失礼します」
きちっとした角度で副会長さんにお辞儀をして、少年は僕を見ることなく去って行った。背後で扉が閉まったけど、僕はどうすればいいんだろう。僕が困っていると、すぐに副会長さんが声をかけてきてくれた。
「突然すまなかったね。どうぞ、掛けてくれ」
執務机の前から離れた副会長さんは僕にソファを勧めてくれた。その足で、副会長さんは所用を片付けて来るからと姿を消す。彼が去って行ったのは僕達が入って来た扉じゃなくて、たぶん奥の部屋に繋がってる別のドアだった。五分も経たないうちに副会長さんは戻って来たんだけど、その手には銀のトレーがあって、ポットやらカップやらが乗っている。
「何か珍しい物でもあった?」
「あ、いえ。シンプルな部屋だなと思って」
「ここは執務室だからね。余計なものはいらないんだよ」
副会長さんは僕の正面の席に腰を下ろして、慣れた手つきで紅茶を淹れた。湯気と共に紅茶のいい匂いが室内に広がって、気分が落ち着いて行く。やっぱり僕、この人のこと好きだな。
「本来は僕の仕事じゃないから、味の方は保証出来ないんだけど」
紅茶を勧めてくれた副会長さんは少し苦い笑い方をしながらそんなことを言う。だけど口に運んだ紅茶は、僕が今までに飲んだどんな紅茶よりも美味しかった。
「美味しいです」
「ありがとう」
微笑みを浮かべた副会長さんは自分もカップを口に運んだ。特別なことをしてるわけじゃないんだけど、副会長さんの動作は一つ一つが優雅に見える。こういうの、貫禄っていうのかな。そんなことを考えながら見てたら副会長さんが苦笑した。そうだ、ここに来たのは仲良くお茶するためじゃない。
「あ、あの……」
「ああ、いいんだ。あれは手違いだから」
どう話を切り出そうか迷いながら口火を切った僕に、副会長さんが返したのはそんな言葉だった。手違いって、どういうことだろう。ますます訳が分からなくなっちゃったんだけど、副会長さんは僕が何もかもを承知してるみたいに話を続ける。
「君にはすまないことをしたと思ってる」
「えっ……?」
「彼らも熱心に働いてくれているのだけれど、融通が利かないところがあってね。半分は僕達のせいなんだ」
「えっ、ええ?」
話が全然見えない。『半分は僕達のせい』って、どういうこと? ひょっとしたら、あのフロッピーを僕に渡したのは生徒会なの?
「あの、どうして僕にあんなフロッピーを?」
「え? フロッピー?」
「違うんですか?」
僕が眉根を寄せながら訊き返すと、副会長さんは『しまった』という表情をした。僕を見ながら話をしていた副会長さんは視線を外して、何かを考えこむように口元に手を当てる。
「まいったな。じゃあ君は、まだ何も知らされていないのか」
「何のことですか?」
「……ごめん。今僕が言ったこと、全部忘れてもらえないかな?」
「ええ?」
「まだ君をここへ連れて来るべきじゃなかったな」
弱ったように微笑みながら、副会長さんは席を立った。彼はそのまま執務机に歩み寄って、引き出しから何かを取り出す。コトンという小さな音と共に、机の上に置かれた香炉みたいな物だった。
「すまないけど、少しのあいだ眠っていてくれ」
そう言って、副会長さんは香炉のような物のフタを開けた。途端に甘ったるい芳香が漂ってきて、紅茶の匂いもかき消すくらいの勢いで室内を満たしていく。そのあまりの強さに、僕は顔をしかめた。だけど覚えてるのは、そこまでだった。