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「げっ、」
閲覧室へ行くのに廊下を歩いていたら、疾が不意にそんな声を上げた。僕がどうしたのかと問う前に、疾は僕を抱えるようにして手近な部屋の中へと飛び込む。静かにしろと耳元で囁かれたので、理由は分らなかったけど大人しく従った。
「言い忘れてたけど、僕達二人とも今週の欠時オーバーなんだ。今見つかるとやばい」
ほとんど声になっていない声を出して、疾は僕にしか聞こえないように理由を囁いた。あれだけ授業をさぼっていれば、それも当然だろう。だけど僕の関心はそこじゃなくて、疾が逃れたがっている相手に向かった。僕には見えなかったんだけど、どうやら何処かに『教師』がいたらしい。授業さえもコンピューターで行われているこの学園では人間の教師は希少価値だ。編入して二ヶ月になるけど僕はまだ見たことがないので、まずいと思う以上にその姿を見てみたかった。
「ねぇ。もう声、聞こえないわよ」
僕達が扉の向こう側に意識を集中していると、不意に奥の方から女の声が聞こえてきた。男子校に女生徒がいるはずないから、この声の主は教師だ。そう思ったら後ろを振り返りたい衝動と見付かったら怒られるっていう緊迫感が同時に押し寄せてきて、なんだかムズムズした気分になった。
「へえ。都合良く鍵が開いてると思ったら、そういうこと」
すぐそこに教師がいるっていうのに、疾の口調は軽かった。つい今まで見付かったらやばいとか言ってたのに、この差は何なんだろう。僕が疾の態度を訝っていると、背後からそんなこと忘れ去るくらい衝撃的な声が聞こえてきた。
「あぁん。いいわぁ」
えーっ!? 何でそういうことになるの!?
「しっ。黙ってろよ」
僕が叫び出しそうだと思ったのか、疾が素早く僕の口を塞ぐ。室内には用途が分らない物が所狭しと置かれていて、あまり身動きが取れる状態じゃなかったんだけど僕は慌てて耳を塞いだ。それでも疾の声すら遮断出来なかったのだから、おおっぴらに喘いでいる声なんて丸聞こえだよ。
「女は冴咲か。いっけないんだ」
楽しそうに独り言を言っている疾に僕は目で、必死に『出よう』と訴えた。奥の方へ顔を傾けていた疾は僕の視線に気がついてくれたみたいで、振り向いてニヤリと笑う。
「はいはい、わかってるよ。じゃあ気を遣って、音を立てないようにそっと出よう」
そう言い置いて、疾は僕から手を離した。解放された口が何かを叫び出してしまわないうちに、今度は自分で押さえつける。僕がそんなことをしているうちに、疾は少しだけ開けた扉の隙間から器用に抜け出した。僕も彼に倣って、物音を立てないよう細心の注意を払いながら部屋を抜け出す。静かな廊下に出るとどっと疲れが押し寄せてきて、僕はその場にへたり込んでしまった。
「じゃあ、当初の目的地へ行くとするか」
あんな光景は日常茶飯事なのか、疾は全然気にしていないみたいに言って僕に手を差し伸べてくる。助け起こしてもらいながら僕は渇いた笑みを浮かべた。
「そうだね」
立ち直るには気分を変えるのが一番いい。早く閲覧室へ行って本を選んで、忘れよう。そう思ってはいたんだけど足取りは重く、僕は体を引きずるようにしながら軽やかに進んで行く疾の後を追った。
本館の片隅にある閲覧室は、余計なことを全て忘れさせてくれるくらい広かった。天井付近まである棚にはぎっちりと本が詰め込まれていて、全部で何冊あるのかなんて予想もつかない。見渡す限り本しかない空間には、授業中だけど生徒の姿もあった。疾が言うには、授業をさぼるやや真面目な生徒がここに集まるんだって。真面目なら授業を受ければいいのにと思うけど、僕もあんまり他人のことは言えないから黙ってた。
ここで、僕はまたしても鳥彦に会ってしまった。特別棟でのことがあるだけに今はあんまり会いたくなかったんだけど、鳥彦の姿を見つけた疾が寄って行ったので僕も従う。鳥彦は驚いたような顔で僕達を迎えた。
「武、疾。ここで会うとは思わなかった」
「それはこっちの科白だよ。彦、こんな所で何してるんだ?」
「僕はこの通り、勉強だよ」
疾にそう答えた鳥彦の前には教科書とノートが広げられていた。この学園でそんな風に勉強してる人を見たの、初めてかもしれない。
「相変わらず物好きだな。そんなもんで勉強しようだなんて」
疾は呆れたように言い、いつものことなのか鳥彦は軽くかわしている。僕としてはつい二ヶ月前まで筆記で勉強していたので、なんだか懐かしかった。
「そういえば、武も以前は筆記で勉強していたんだっけ?」
僕があんまりにも見ていたからか、疾と話をしていた鳥彦が不意に顔を傾けてきた。もしかして養育院のことを知られているんじゃないかって一瞬ヒヤッとしたけど、よく考えてみれば編入生っていうだけでそう思われるのかもしれない。特別棟でのこともあるし迂闊なことを言えないから、僕は頷くだけで答えにした。
「そんなことよりさ、さっき冴咲を見かけたぜ」
筆記での勉強になど興味のない疾がさっさと話題を変える。鳥彦が疾の方を向いたので僕はホッとした。ありがとう、疾。
「へえ。元気そうだった?」
「全然。相変わらずだったぜ」
疾に感謝したのも束の間、雲行きが怪しくなってきた。この話題にはついていけそうもないから、僕は退散しよう。
「じゃあ、僕は本を見てくるね」
一応言い置いて、僕は二人から離れた。本棚は分野別に整理されていたので、その表示を追って見ていく。気になったタイトルの本を一冊だけ手にしてみたけど、そういえばどうやって借りるんだろう。分からなかったので、一度疾達の所に戻ることにした。
それにしても、本当に沢山の本がある。ここにある本を全部読もうと思ったら何年かかるんだろう。そんなことを考えながらよそ見して歩いてたら、誰かにぶつかってしまった。その弾みで、僕が手にしていた本が落下する。
「あ、すみません」
条件反射的に、僕は相手の顔も見ずに頭を下げた。その人は僕が落とした本を拾ってくれて、それを差し出されたので僕も頭を上げる。
「はい。気をつけてね」
ぶつかられたことにムッとするでもなく、その人は柔らかい微笑みを浮かべてそう言った。眼鏡をかけているせいで知的に見えるけど尖った感じはなくて、雰囲気がまず優しい。今まで出会ったことのないタイプのその人に、僕はかなり好印象を抱いた。学年を示す校章が上級生だ。
「ありがとうございます」
僕の態度が大袈裟だったからか、その人はもう一度微笑んでから立ち去った。はあ、あんな人もいるんだ。この学園も捨てたものじゃないかもしれない。
「珍しい。生徒会の奴だぜ」
「こんな所で会うとは思わなかった」
近くで声が聞こえたから振り返ったら、いつの間にか疾と鳥彦が傍にいた。深刻そうな顔をしてる二人は僕とぶつかった人が去って行った方を見つめたままで、僕は僕で二人の発言に驚いて声を上げる。
「生徒会?」
「実質、この学園を支配している団体だよ」
僕が眉をひそめた意味を誤解したらしい鳥彦が、わざわざ説明を加えてくれた。でも、そういう意味にとられたのなら僕にとっては都合がいい。
「お偉いさんだよ。滅多に会えないんだぜ」
鳥彦が事務的に説明をしてくれたのに対して、疾は嘲るように言って笑った。感情的になってるみたいだけど、どうしたんだろう。何か気に障ったのかな。
「さっきの人は生徒会の副会長さんだよ」
僕に説明をしてくれていながらも、鳥彦は目で疾を制している。それでも疾は硬質な態度を変えなかった。
「武、得したな。会長の次に滅多に姿を現さない奴だぞ」
「疾」
鳥彦の口調が急に厳しくなったから、さすがに疾も閉口する。とても口を挟める雰囲気じゃなかったので僕は黙って見ていた。疾が大人しくなったことを確認してから鳥彦は僕に視線を寄越してきて、そのまま苦笑を浮かべる。
「この際だから武にも少し教えておこうか?」
「おい、武に妙なこと吹き込むなよ」
「いいじゃないか。武が知りたいなら、誰にもそれを阻む権利はないよ」
鳥彦はそう言って、疾に向けていた顔を僕の方に傾けてきた。しかめっ面になった疾も僕を見る。本音を言えば聞きたかったけど、疾があんまりにも頑なだったから聞きたいと言えなかった。
「生徒会、通称KINGDOM。学園のあらゆる事象において決定権を有する頭脳集団。才色兼備って噂だが、その実態は一般の生徒にはほとんど明かされていない。判明していることと言えば、どの役職も俺達より上級の生徒で占められているということ。こんなところか?」
どう答えれば角が立たないか迷っているうちに、いきなり説明が飛んできた。でもこの声は、鳥彦のものじゃない。
「一般の生徒に公開されてる情報はそんなもんだろ?」
ハードカバーの本を肩に担ぐようにして本棚の影から姿を現したのは、僕には見覚えのない生徒だった。でも疾と鳥彦は彼と知り合いらしく、それぞれに反応を示してる。
「毅」
「何しに来たんだよ」
鳥彦の反応はいたって普通だったけど、疾の言葉には棘がある。露骨に嫌そうな表情をしてるから、たぶん疾はこの毅って人が好きじゃないんだ。
「ご挨拶だな、疾。俺は初めからここにいた。読書に没頭してるのを邪魔したのはそっちじゃないか」
毅の返答を無視するみたいに、疾はそっぽを向いた。やれやれといった感じで肩を竦めた毅は手にしていた本を無造作に置いて、それから僕の方を向く。
「噂の編入生か。会うのは初めてだな」
そんなことを言ったかと思ったら、毅は力ずくで僕の顔を引き寄せた。初対面の人の真顔が近すぎて、ゾッとする。
「へえ、悪くないじゃん。疾に独り占めさせとくのはもったいないな」
ニヤリと笑った毅の表情が、嫌だと思った。しかも突然顔を引っ張られたもんだから首が痛い。
「いいかげんにしろよ、毅」
僕が抗議するより先に疾が怒りのこもった声を上げた。疾の言うことを聞いたわけじゃなさそうだったけど、毅は僕から手を引く。身を翻した僕にはもう構わず、毅はニヤニヤ笑いながら疾を見ていた。
「そう睨むなよ」
そんなことを言ってるけど、毅の態度は明らかに疾を莫迦にしてる。そんな状態で険悪な雰囲気が解消されることもなくて、疾は毅を睨み続けていた。
「二人とも、こんな所で騒ぎを起こさないでくれよ」
呆れた声で割って入ったのは鳥彦だった。彼が声を上げた瞬間、疾も毅も鳥彦を振り返る。
「そう思うならこいつを早く回収してくれ」
「お前に言われなくても、もう行くさ」
鳥彦に向けられた疾の科白に自分で応えて、毅は鳥彦の肩を抱いた。鳥彦も線が細い方だから、そうされてると大人と子供みたいだ。でも別に、鳥彦に嫌がってるような様子はない。
「じゃあ、またな」
皮肉めいた科白をわざわざ疾に向かって投げかけて、毅は鳥彦を促しながら歩き出した。鳥彦は僕達に向かって苦笑を見せてから、毅と一緒に去って行く。今さらだけど、僕は毅のふてぶてしさに腹が立ってきた。
「あれ、誰?」
「彦と同室の毅。嫌な奴だろ?」
疾が思いっきり嫌そうな表情で同意を求めてくるから、僕も素直に顔をしかめながら頷いた。粗野で乱暴。さっきの生徒会の人とはまるで正反対だ。
「いつもああなんだ。武、気をつけろよ」
いつものように忠告してくれた後、疾はすぐに普段の彼に戻った。どんな本を借りるんだと訊かれたから、手にしてたハードカバーの本を掲げて見せる。僕が持ってる本のタイトルを見るなり、疾は眉をひそめた。
「武って、案外ロマンチストなんだな」
「疾はこういう本は読まない?」
「僕は基本的に本は読まない」
疾はこの学園の典型的な生徒らしく、すべてをコンピューターで済ませてしまうらしい。でも僕は文章を読むには紙の方が好きなので、疾に借り方を聞いて本を借りた。