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「武、朝だぞ」
耳元で声が聞こえて、誰かの手が優しく髪を撫でた。目を開けてみると疾の顔が間近にあって、思わず身を引きながら体を起こす。び、びっくりした。まだ胸がドキドキしてるよ。
「武、ひとがあれだけ忠告してやったのに鍵も掛けずに眠るなんて。襲ってくれと言ってるようなものだぞ」
僕の反応を見てため息をついていた疾は呆れたように言って、リビングの方へ行ってしまった。ベッドを飛び下りて、僕は慌てて疾の後を追う。
「そんなこと言ったって、疾が隣にいるんだから夜くらいいいじゃないか」
「甘い。武が寝てる間に僕が外出したらどうするつもりだ?」
マグを片手に視線を傾けてきた疾の言葉に、答えられなかった僕は閉口する。いかにもありそうなシチュエーションだ。
「ほら見ろ。僕がいるからって怠けてるといつか後悔するぞ」
「……わかった。今度から気をつける」
勢いに任せて飛び出してきたものの結局は言い負かされて、僕は私室に引き返した。やっぱり疾には頭が上がらないみたいだ。
私室で制服に着替えていると、机の上に置いてあるナビゲーションシステムに表示灯が点っているのが目についた。何だろうと思って、支度を中断してナビに向かう。ちなみにナビゲーションシステムは小型のコンピューターのことで、学園側から生徒一人一人に支給されている。用途は……人それぞれ色々って感じかな。ナビは小脇に抱えられるほど小さいから、出かける時は持ち歩く人が多い。
『本日午後一時、特別棟ノ空教室ニテ待ツ。貴君ニオ渡シシタイ物ガアル』
表示灯が示していたのは新着メッセージありということで、メッセージの内容がこれだった。しかもまだ、続きがある。
『受ケ渡シニハ必ズ一人デ来ラレヨ。貴君ガ指定時刻ニ現レナケレバ本品ハ処分サセテイタダク』
メッセージの内容からして怪しいけど、差出人も不明だった。ナビは製造ナンバーを交換しない限りメッセージのやりとりが出来ない仕組みになっていて、僕は疾くらいにしかナンバーを教えてない。だけど明らかに、このメッセージは疾じゃないよね? 疾に相談してみようかなとも思ったんだけど、まるで狙ったようなタイミングで新着メッセージが届いた。
『P.S イクラKINGDOMニアクセスシヨウトシテモ無駄ダ。アレニハ専用ノフロッピーガ必要トナル』
……このメッセージの差出人は間違いなく、疾じゃない。だけどこれで、疾にも相談出来なくなってしまった。行くしかないんだね。
「武、何してるんだ。遅れるぞ」
軽いノックの音と共に疾の声が聞こえてきたので、僕は慌ててナビの電源を切った。棚の上にある置時計に目を移してみれば、もう八時を回ってる。急がないと遅刻だ。
「今行く」
ドアを開けないまま返事をして、急いで支度を済ませてからリビングへ出た。だけど椅子に横座りで腰かけて悠然と足を組んでる疾に急いだような様子は見られない。しかも彼は、僕がリビングに戻って来てからも校内新聞を広げたままだった。
「早く食べてしまえよ」
「……遅れるぞって、言わなかった?」
「急げとは言ってない」
新聞に目を落としながら答えた疾は片手でマグを口に運んだ。疾に急ぐ意思がない場合、必然と僕にもその必要はなくなる。ため息をついてから、僕もダイニングテーブルに腰を落ち着けることにした。テーブルの上には疾が用意してくれた軽食があるので、それを少しずつ口に運ぶ。疾は毎朝こうして朝食を作ってくれるんだけど、自分は食べないんだよね。
「疾、何杯目?」
疾が無意識のように空になったマグにコーヒーを注いだので、僕は眉根を寄せながら声を上げた。僕に言われて初めて気がついたみたいに、疾は校内新聞から目を上げて首を傾げる。
「何杯目だったかな? 忘れた」
そんなことを言っている疾はいつも、朝食代わりにコーヒーを飲んでいる。しかも際限なく口に運ぶから始末が悪いんだよね。カフェインの取りすぎは体に悪いからと、僕が何度言っても聞かないし。
「ほどほどにしておきなよ」
何度注意しても疾の生活態度が改まらないから、けっきょく毎朝の意見がこれになってしまっていた。
「わかってるよ」
そうやって、疾もいつも笑顔でごまかす。なんだか不毛で、僕はため息をついてから食事を再開させた。疾は相変わらず、コーヒー片手に校内新聞を読んでいる。
「何か面白い記事でも載ってるの?」
疾があんまりにも熱心に読んでるから、あんまり興味はなかったけど尋ねてみた。すると何故か、疾は含み笑いをしながら僕を見る。
「武のことが載ってるぜ」
そう言って、疾は僕にも見えるようテーブルの上に新聞を広げた。嫌な予感を覚えながら、僕は身を乗り出して記事を覗き込む。すると一面にでかでかと『速報! これが噂の編入生の実生活だ!』と書いてあるのが目に留まった。
「……やっぱり見ない」
タイトルを見ただけで辟易して、中腰になっていた僕は椅子に体を預けた。新聞を引き寄せた疾は口元に笑みを残したまま話を続ける。
「なかなか興味深いことが書いてあるぜ?」
「……どんな?」
「どうやら、武と僕はできてると思われてるらしいな」
「ふうん」
そのくらいで済むんだったら、別にいい。だけど疾の話はそこで終わらなかった。
「まだあるぞ。僕が武をさも大切にしていて、他の連中には触らせないほどの寵愛ぶりだって」
……なんだか凄い表現をされてるけど、実際違うとも言えない状況だから仕方ない。もうこれで終わってくれと願ったんだけど、疾の話はまだ続いた。
「激写! 教室で絡み合う二人、だってさ。これはまた見事に……」
感心したような声を出した疾は、また僕に見えるように新聞を広げた。僕は嫌なものを見る感じで新聞を一瞥したんだけど、そこに載っていた写真を見て思わず立ち上がる。
「な、何この写真!」
そこには、キスでもしそうな甘い雰囲気の僕達がアップで映し出されていた。偶然の産物か合成なのか分からないけど、冗談じゃないよ。
「武ぃ、こんなことも書いてあるぜ。夜はもちろん『儚げな美少年』と称される疾さんが攻め、『噂の編入生』こと武さんが受け、だってさ」
疾はおかしそうに記事を読み上げてるけど、僕は頭が痛くなってきた。何でこんなに、あることないこと記事にされなきゃいけないんだろう。
「それにしても話題が豊富だな、武。噂の編入生ネタは二ヶ月経っても健在か」
疾の話によると、僕のプロフィールは食の好みからスリーサイズまで公開済みらしい。測られた覚えもないからスリーサイズとかはデマなんだろうけど、そんなもの知って何が楽しいんだろう。怖くて聞いてないから本当のところは分からないけど、養育院のこととかが暴露されてないことを願うよ。えげつないゴシップ記事に食欲もそがれてしまって、僕は箸を置いた。
「もういいのか?」
「うん。ごちそうさま」
残すのは作ってくれた疾に申し訳ないけど、これ以上は入りそうもなかった。食器を脇に追いやって、僕もようやくコーヒーに手を伸ばす。疾はいつもブラックだけど、僕は砂糖とミルクをたっぷり入れてからマグを口に運んだ。
「武ぃ。これくらいで疲れてたらこの先やっていけないぞ」
疾のこの科白、一日に何回聞いてるかな。分かってると答えつつも僕はやっぱり、朝から多大な精神的ダメージを受けていた。