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ESCAPE  作者: sadaka
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『出ようか』


 疾がそう言ってから、しばらくが経った。頃合を見計らってということだったけど、疾はあれ以来そのことを口に出さない。僕の方からも言わなかったので、僕達は普段と同じ生活を続けていた。変わったことといえば、あの日から疾が夜の外出をしなくなったということくらい。疾が外出しなくなったことについて鳥彦に何度か訊かれたけど、僕は言わなかった。またいつかみたいに実力行使されるかとも思ったけどそれもなくて、僕達は異常な世界の中で平穏な日々を過ごしている。

 あの一件以来、僕はほんのちょっと強くなれたような気がする。本質的にはあんまり変わっていなくてやっぱり疾に頼りがちなんだけど、それでも最近は校舎を一人で歩けるようになった。ここを出るまではと、ジャコウも念のため常備している。媚薬と聞いただけで嫌気がさしていた以前の僕に比べれば、かなり合理的な考え方だろう。そんな風に日常を送っていたある日、本を返却するために寄った閲覧室で玉田さんに会った。

「この前はすまなかったね」

 口を開くなり、玉田さんはそんなことを言った。玉田さんの言う『この前』がいつのことなのか分からなくて、僕は眉根を寄せる。しばらく考えを巡らせていると思い当たる出来事が浮かんできたので僕は小さく首を振った。

「もう、いいです」

 KINGDOMへの不正アクセスの件でAOの委員に連行されたのは、僕にとってはずいぶん昔の話だ。そんなことより、鳥彦に言わせればこんな場所にいるはずのない人がどうしているんだろう。

「少しいいかな? 君と話がしたいんだ」

 僕の視線を受け止めて正しく理解したうえで、玉田さんはそう言った。生徒会の役員だと分かってからも、僕はどうもこの人には弱いらしい。僕が頷くと玉田さんは歩き出した。

 閲覧室を出てすぐ、玉田さんは厳重にロックされているドアを開いた。校舎の中には至る所にこういった扉があって、一般生徒の進入を拒んでいる。開かれたドアの先には渡り廊下のような通路が続いていたから、こういう扉は校舎と生徒会関連の施設を結ぶものなのかもしれなかった。

 限られた者しか使うことを許されない通路を抜け、歩いて行くうちにプレートが見えてきた。応接室と書かれたその部屋は来客を迎えるためだけの場所のようで、テーブルとソファしかないシンプルなつくりになっている。テーブルを挟んで向かい合って腰を下ろすと、すぐにお茶が運ばれてきた。持ってきてくれたのは役員なのだろうけど、その生徒は礼儀正しく一礼した後はすぐに姿を消す。彼は書記なのだと、玉田さんが教えてくれた。

「もう、道春には会ったんだろう?」

 道春は、兄さんの名前だ。思い出したくもない光景が蘇って、僕は苦い気持ちになりながら頷く。たぶん嫌悪感はおもむろに顔に出ていて、玉田さんが苦笑した。

「彼は君が可愛くて仕方ないんだよ」

「そんな……そんな言葉は聞きたくありません」

 思わず感情的になりながら本音を吐き出して、僕はうつむく。今は誰に何を言われても兄さんのことを考えるのは嫌だった。

「僕は、あの人を兄だとは思いません」

「……本当は口止めされてるんだけど、言ってしまいたくなるね」

 玉田さんが思わせぶりなことを言うから、僕は眉をひそめながら顔を上げた。僕と目が合うと、玉田さんは少し寂しそうに笑んで見せる。

「道春の奴、君がやっと自分の元に戻って来るって……君の編入が決まった時に零してたんだ。普段はそんなこと言わない人なのにね」

「……僕には兄さんのことは分かりません」

 僕にはこの学園の気風が理解出来ないし、認めることも無理だ。それはそのまま、兄さんに対する感情につながる。この学園の在り方が兄さんの考えそのものだから。僕のそうした考えを理解してくれているのかは分からないけど、玉田さんはふと遠い目になった。

「彼も素直になればいいものを」

 玉田さんの言葉は独白でもなく、今この場にいないあの人に向けられたもののようだった。玉田さんの表情には複雑な胸の内が表れているみたいで、僕は何も言えずに口をつぐむ。だけど沈黙は長く続かなくて、玉田さんはすぐ表情を改めた。

「僕から一つだけ言わせてもらっていいかな?」

 真っ直ぐに僕を見据えてくる瞳は真摯だった。生徒会の副会長で他人の気持ちを無視するようなやり方をすることもあるけれど、玉田さんはどこか誠実なんだ。それが分かるから嫌いになれなくて、僕は黙ったまま頷く。玉田さんは少し間を置いてから話を続けた。

「君がどう思おうと、道春は君のことをとても大切に思っているよ。素直になれないだけなんだ、皆ね。とても、不器用だよね」

 玉田さんが時折見せる、憂いの表情。彼の過去に何があって、何を思ってそんなことを言うのか分からないけど、やっぱり僕には納得することが出来ない。根本的に、考え方が違うんだ。

「……どう言われても、やっぱり僕には合いません」

「もう、行くのかい?」

 僕が立ち上がると玉田さんは顔を上げて僕を見た。声は掛けてくれたけど引き止める気はなさそうだったので、僕はお辞儀をしてから踵を返す。応接室を出てからも玉田さんが最後に見せた困ったような表情が、いつまでも頭から離れなかった。







 どうにもスッキリしない気分のまま、僕は寮に戻って来た。何が胸をふさいでいるのか分からないけど重苦しくて、まだ玄関を開けられずにいる。中にはたぶん、疾がいるはずだ。こんな顔のまま彼に会ったら余計な心配をさせてしまうだけだから、僕は掌で顔を叩いてから暗証番号を入力するべく腕を上げた。だけど僕が行動を起こす前に、扉が内側から開かれる。中から飛び出して来た人とぶつかってしまって、僕は数歩よろめいた。

「鳥彦……?」

 僕が誰とぶつかったのか察した時、向こうも僕がそこにいることを認めたみたいだった。僕の顔を見るなり、鳥彦は顔を歪める。彼らしくもなく動揺した様子で、鳥彦は何も言わずに走り去って行った。あんな鳥彦を見たのは初めてのことで、僕は呆然と立ち尽くす。

「武? 帰ったのか?」

 開きっぱなしの扉の奥から、疾の声がした。ハッとして室内を振り返って見ても、まだ疾の姿は見えない。

「あ、うん」

 答えながら、僕は室内に進入した。玄関を閉めて、半分開いたままのリビングの扉を抜けると、ソファに疾の姿がある。僕を振り返っている疾の顔色はいつもと変わりなくて、ことさら鳥彦の異変が気にかかった。

「今、そこで鳥彦に会ったよ」

「……そう」

「何か、あったの?」

 鳥彦の名前を出した途端に疾の顔色が優れないものになった理由を、僕は意を決して尋ねてみた。答えてくれないのなら、それも仕方がない。そう思ってのことだったんだけど、疾はため息をついてから話してくれた。

「言ったんだ、あのこと」

「あのこと……?」

「ここを出るって」

 悲痛な表情を隠そうとするように疾は顔を背けてしまう。それは鳥彦が見せた刹那の表情と同じもので、僕は複雑な気分になった。もしかしたら今頃、鳥彦は独りで泣いているのかもしれない。

「彦、どんな表情(かお)してた?」

 疾は、見られなかったんだ。そう思ったら罪悪感に襲われた。今更ながらに鳥彦の表情が痛い。

「……言えないよ」

「……そう」

 それ以上、疾は何も聞かなかった。僕も何も言えなかったので静寂が訪れる。だけど沈黙は長く続かなくて、やがて疾が口火を切った。

「そういえば、今まで何処に行ってたんだ?」

「閲覧室。そこで玉田さんに会った」

「何か、言われたのか?」

「兄さんのことをちょっと。それだけだよ」

「そうか」

「あの人、兄さんのことが好きなんだ」

 独り言のように呟いた自分の言葉が、自然と胸に落ちた。不思議な話だけど、それでようやく玉田さんが別れ際に見せた表情の意味が分かったような気がした。疾も思うところがあったのか、そうかもしれないなと言う。それからまた沈黙が流れたけど、たぶん考えていることは同じだ。

「今夜、行こうか」

「……うん」

 今ならもう、ためらいも戸惑いもない。夜にまた会うことを約束して、僕達はそれぞれの私室へ戻った。

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