16
気がついた時、僕は寮の901号室の前に立っていて、ぼんやりと玄関の扉を見つめていた。どうやって帰って来たのか全然覚えてないけど、こんな場所にいるってことはおそらく自分の足で歩いて来たのだろう。たぶん、何かが目に映っていても何も見ていなかったんだ。それほどまでにショックが大きかったんだと、他人事みたいに思う。いつまでもここにいても仕方がないので、僕は玄関のドアを開けた。
リビングの照明は消えていて、室内は何事もなかったかのように静寂を保ってる。空が白んできているような気がするけど、疾は帰っていないんだろうか。気にはなったけど探しに行く余裕はなくて、僕はソファで脱力した。体中が痛い。霞がかかったように頭はぼんやりしているのに、体にはまだあの時の感触が鮮明に残っているような気がしていた。
恥ずかしくて、悔しくて、情けなくて、申し訳ない。色々な感情が混ざり合っていて、自分でもどう思えばいいのか分からなかった。混乱してる頭を置き去りにするように、勝手に涙が出てくる。耐えられなくなって、僕は膝を抱いた。
「……んで……」
あんなつもりじゃなかった。訊きたかったことを聞いて、あとは文句を言って……あんなことになるなんて思わなくて。何で僕は、あの人に会いに行ってしまったんだろう。今はただ、その後悔だけが押し寄せてくる。
「武……」
不意に名前を呼ばれたので驚いて顔を上げてしまった。いつの間にか、疾が薄暗いリビングに佇んでいる。彼の顔を見たらまた、恥ずかしさと申し訳なさがこみ上げてきた。疾の前で顔を歪めたくなくて、僕は体を丸めて縮こまる。
「……武、」
必死に嗚咽を堪えていると、疾の手が肩に触れた。優しくされたらもう抑えが利かなくなってしまって、僕は疾に縋りついた。
「疾、ごめん、ごめんね」
「僕は武に謝られるようなことはされてないよ」
何も知らない疾が僕を赦してくれるから、それが余計に涙を誘った。疾には何度謝っても足りない。言葉なんかじゃ全然足りないよ。
泣いても泣いても涙が止まらなくて、このままだったらどうしようと最後の方は本気で考えていた。でも涙なんてやがては枯れるもので、しばらくすると自分でも分かるほど気持ちが落ち着いた。僕が泣いている間は無言で傍にいてくれた疾にお礼を言って、彼から離れる。それから二人で、ぼんやりと明け方の風景を眺めた。寮の部屋から見る風景は、僕にとって見慣れたものになりつつある。だけど疾とこんな風に見るのは初めてで、そのことが僕を複雑な気分にさせた。まだ、迷っているから。
「武、この学園をどう思う?」
先に口を開いたのは疾の方だった。僕が答えられずにいると疾は淡々と言葉を続ける。
「僕はずっとここにいるんだ。気がついたら、ここにいた。子供の頃から利口に生きることだけを教えられたよ。その結果が、これさ」
シャツの袖をまくった疾は僕に見えるように左腕を掲げた。明け方の光に映し出された彼の左手首には切り傷の痕が見える。もう古いものみたいだけど、僕は彼がそこまで追いつめられた経験があることにショックを受けた。
「初めて抱かれた後につけた傷だよ。どうしようもなく嫌だった」
「……相手を、聞いてもいい?」
疾はもう昔のことだからと呟いて、それでも答えてくれた。
「生徒会長。だから僕は生徒会が好きになれない」
……やっぱり。だから生徒会の話をする時、疾は不機嫌そうにしていたんだ。疾をそこまで追いつめた張本人があの人だと知って、僕はまた目頭が熱くなってしまった。
「ごめん」
「武のせいじゃない。君が謝ることはないさ」
違う、関係がない訳じゃない。あの人のことを話すべきかどうかずっと迷っていたけど、疾にだけは言わなくちゃ。真実を伝えたせいで疾の態度が変わってしまったとしても、僕は受け止めなくちゃいけないんだ。
「僕の……兄さんなんだ」
疾に嫌われることが、怖かった。だけど僕は勇気を振り絞って一世一代の告白をした。それなのに、疾はあっさりと頷いて見せる。
「そんなこと、とっくに知ってたよ」
「……知ってた?」
「武の隠してることくらい、見破れない僕だと思った?」
真実を打ち明けた後でも疾がいつものように笑いかけてくれるから、たまらない気持ちになった。彼の言う通りだからこそ直隠しにしてきたつもりだったけど、とっくに知られていたなんて。知っていて、それでも、あんな兄さんの弟である僕を赦してくれるなんて……。疾に合わせる顔がなくて、僕は俯いた。
「武のせいじゃない。君が泣くことはないんだ」
疾は、どこまでも優しい。だけどその優しさの中には諦めが含まれていて、それが悲しかった。勝気で奔放に見えても、彼も僕と同じなんだ。
「僕、兄さんに……」
「……そうか。姿が見えないと思っていたけど、やっぱり」
この告白も予想していたらしく、疾は冷静だった。驚いたりということはなかったけど、疾は沈痛な面持ちになって目を伏せる。
「すまない、武。僕があんなことを言わなければ……」
「それこそ君のせいじゃない」
疾は僕が自分と同じ目に遭わないように忠告してくれていた。それを僕は結局、彼の心遣いに気付かないまま無駄にしてしまったのだ。疾がもうやめようと言ったので口をつぐんだけど、胸の奥に重苦しい感情の塊が沈んでいるみたいだった。それはたぶん疾も同じで、僕達はお互いに負い目を感じながら生きていくことになるだろう。そんなのは嫌だったので、僕の方から沈黙を破った。
「本当は、何年も音信不通だったくせに突然こんな所に呼びつけた兄さんに文句を言うために、来たんだ。兄さんに会ったらすぐ、出て行こうと思ってた。だけど……出来なかった」
「……理由を、聞いてもいいの?」
「君との生活があんまりにも心地好かったから……離れたくなかったんだ。僕も身寄りは兄さんだけで、ここを出たら独りで生きていかなくちゃいけない。君に会うまではそれでも構わないと思ってた。けど……」
この学園に来てから嫌なことはいっぱいあった。それでも僕はまだ、この場所にいたいと思ってる。疾とずっと一緒にいたいんだ。いまさら独りになんて戻れないよ。
「……僕もさ」
遠い目をしながら疾がぽつりと呟いた。その顔には明け方の清々しさに似合わない暗い影が落ちていて、彼がこの学園で辛い目に遭ってきたことを物語ってる。僕の視線に気がついた疾は苦笑を見せてから小さく息を吐いた。
「僕も、いつだってここを出たかった。けれど僕にはここでの生活しかなかった。外の世界には僕がいる場所なんて何処にもないから」
寮で同室になってからずっと一緒にいたけど、今、初めて疾のことを理解出来たような気がする。お互いに本音で語り合えたきっかけが兄さんだと思うと皮肉だけど、そんなことはもうどうでもいい。やっぱり僕は、これからも疾と一緒にいたい。この思いは何があっても変わらないだろうから。
「……出ようか」
「えっ?」
「ここから」
疾の言葉は唐突だったけど、彼はもう意思を固めている人の顔になっていた。本気、なんだ。僕は外の世界も知っているからここから逃げ出すことに恐怖を感じないでもなかったけど、疾と一緒ならそれでもいい。真剣に僕の返事を待っている疾を見ていると、そんな気になれた。
「いいよ」
「じゃあ、一緒に行こう」
「いつ?」
「そうだな、今すぐにでも」
「今は、ちょっと……」
気分的にはすぐにでも行動を起こしたかったのだけど、あんなことがあった後なので僕の体は悲鳴を上げていた。皆まで言わずとも疾はすぐに察してくれて、ばつが悪そうな表情になる。
「ごめん。じゃあ、頃合を見計らって」
「うん。わかった」
それで、話は終わった。具体的なことは何も話題に上らなかったけど、僕達はどちらからともなく私室に引き上げる。不思議と不安も後悔も感じていなくて、僕は充足感に包まれながらベッドに体を横たえた。