14
目を覚ますと夜中だった。私室を出るとリビングのテーブルにメモが置いてあるのが目についたので、それを拾って見てみる。そこには『出掛けるから戸締りをして……』という、いつもの疾の言葉が記されていた。相変わらず、彼は部屋にいない。僕はため息をついて、私室に引き返した。
私室に戻ってから、ちょっと考えた。すでに昼と夜が逆転してしまっていて、目は冴えている。もう眠れそうもなかったので先週の欠時オーバーの課題をやることにした。机と向き合って座って、普段は端に除けてある個人用のナビを机の中央に引き寄せる。課題のフロッピーを差し込もうとしたら表示灯が点っているのが目についてしまって、僕は先に新着メッセージを確認することにした。疾くらいにしか製造ナンバーを教えてないのに、よく使われるものだ。
『先日ハズイブント大幅ナ遅刻ヲシタヨウダナ。規定ヲ守レナイ者ニハ資格ガ与エラレナイ。シッカリヤッテクレタマエ』
これが新着メッセージの内容だった。差出人不明のメッセージは回を増すごとに偉そうな調子になってきてる気がする。なんだか課題をやる気もそがれてしまって、僕はナビを元の位置に戻した。そして広々と使えるようになった机に、そのままつっぷす。やることが、なくなってしまった。かといって眠れる訳がないし、何をして時間を潰そう。
引き出しを、開けてみた。そこにはジャコウと、あのオレンジ色の液体が入った小瓶と、KINGDOMにアクセス出来るフロッピー、まだあまり読んでいない分厚い本が入っている。僕は本だけ取り出して引き出しを閉めた。他の物は見ていると余計なことばかり考えそうだったので、すぐに視界から消した方がいい。今出来る暇つぶしといったらこれくらいで、僕はベッドに転がってから分厚い本のページをめくった。
本も半ばにさしかかった時、不意に玄関の開く音がした。疾が帰って来たのかと思って、僕は寝転んでいたベッドから上半身だけを起こす。直後、僕の私室を誰かがノックした。
「武、開けてくれないか」
扉の向こうから聞こえてきた声は鳥彦のものだった。ちょっと待ってと応えながらベッドを抜け出し、鍵を開ける。薄暗いリビングに佇んでいた鳥彦は真夜中だというのに制服姿だった。
「寝ていた?」
「ううん、本を読んでた」
「どんな内容?」
「どっかの国の貴族の恋物語」
「武にそんな趣味があったなんて知らなかったよ」
「……借りてから後悔してたところだよ」
おかしそうに笑っている鳥彦を促して、僕達はリビングへ移動した。この間のこともあるので、彼と私室で二人になるのは危険なような気がして。リビングの照明をつけてからソファに戻ると、鳥彦は苦笑いを浮かべていた。僕の考えていることが解ってしまったからなんだろうけど、鳥彦はそれについては何も言わなかった。
「それで、用は何?」
「調子はどう?」
「もう平気」
「そう。疾は……」
「僕が部屋に帰ったらいたよ」
「……そう。今は?」
「目を覚ましたらいなかった」
僕がそう答えたところで、鳥彦は口をつぐんでしまった。今の会話に用件らしい用件はなかったような気がするけど、鳥彦は何が聞きたかったんだろう。何か言いたそうにしているのにためらって口を開けないでいるみたいな鳥彦を見て、僕は初めて彼の様子がおかしいことに気がついた。
「疾に用があったの?」
「……いや、」
僕の問いかけに否定してみせて、鳥彦は小さく息をついた。それから気分を改めるように表情を変えて、彼は僕を見据えてくる。深刻そうな鳥彦の顔つきにドキッとした。嫌な予感がする。
「武、君は生徒会に知り合いでもいるの?」
「何で、そんなこと訊くの?」
「いくら武が噂の編入生だといっても、生徒会の君に対する執着があんまりにも過剰だから。もしかしたらと思って訊いただけだよ」
「いないよ。そんな滅多に生徒の前に顔を出さない人に、ただでさえ外出しない僕が出会うはずないだろう?」
「確かに、そうだけど……」
言いよどんだ鳥彦も、そこは納得しているみたいだった。事実、僕は疾が一緒じゃないとほとんど外出しない。一緒に出掛けた時に生徒会の人と会っていれば疾が鳥彦に話すはずだ。けど、それでも、鳥彦には気になることがあるらしい。
「でも、君は玉田さんに会っている」
「あれは偶然だろ?」
「玉田さんは偶然あんな所に姿を現す人じゃない」
僕は本当に偶然だと思っていたのだけれど、鳥彦に言わせればそうじゃないらしい。玉田さんが僕に会いに来たんじゃないかって鳥彦が言うから、僕はまばたきをくり返した。
「何でそんなことを?」
「その理由を聞きたかったんだ」
「知らないよ、そんなこと」
「そうか……」
僕が本当に知らないと判断したのだろう、鳥彦はそれ以上の追及をしなかった。僕も口をつぐんだから、リビングが静まり返る。待っていても鳥彦が口を開かなさそうだったので、今度は僕から話を切り出した。
「鳥彦、聞いてもいい?」
「……何を?」
「勧誘って言うけど、生徒会に入るってどういうことなの?」
「なんでも好きに出来るってことさ」
「それは分かってるけど……」
この学園の生徒会(通称KINGDOM)は絶大な権力を持っていて、全ての事柄において采配を振っている。それくらいのことは僕でも知ってるけど、生徒会が具体的に何をしているのかということはまったく知らなかった。僕が聞きたかったのは、その具体的な内容だ。だけど鳥彦は、僕が言っていることの意味を理解していながらも首を振ってみせる。
「武にあそこは向かない」
鳥彦がどれだけ生徒会に深入りしているのか僕は知らないけど、その一言で何となく彼が言いたいことが解ったような気がした。この学園自体が体現している異様さが、そのまま生徒会の気質ということなのだろう。
お互いに発する言葉がなくなって、僕達はまた沈黙してしまった。その重苦しい空気を破ったのは玄関の開く音で、僕と鳥彦は同じタイミングで玄関の方を振り返る。玄関とリビングを隔てているドアを開いて姿を見せたのは疾だった。
「あれ、彦? こんな夜中に武と二人っきりで何やってんのさ」
「ちょっと話をしていただけだよ。疾があんまりにも留守にするから、武が寂しがってね」
訝しげに眉根を寄せた疾に、すぐさま普段の調子に戻った鳥彦が応えた。疾は眉間のシワをといて、キョトンとした顔を僕に向けてくる。
「なに? 武、僕がいなくて寂しかったの?」
問われても答えようがなくて、僕は鳥彦を睨んだ。口実にしても、もう少し答えやすい話題を振ってくれてもいいじゃないか。
「じゃあ、僕はそろそろ失礼するよ」
僕の視線を苦笑で受け止めて、鳥彦は去って行った。
「どうやら彦にうまく躱されたらしいな」
鳥彦がいなくなった後、疾はそんなことを言った。それから、疾は僕の顔をじっと見る。
「な、何?」
あんまりにも真っ直ぐ見つめられるので、どもってしまった。何の前触れもなく、疾は僕の方にずいっと身を乗り出す。ぎょっとして体を引こうとしたんだけど、それは疾の腕に制されてしまった。
「最近、ずいぶん彦と仲がいいんだな」
「べ、別に、そんなことないよ」
「なんで視線を逸らすのさ。僕には言えないことでも彦と話していたのか?」
「疾の考えすぎだよ」
「なら、いいけど」
納得はしていないみたいだったけど、疾は僕の腕を解放してくれた。僕はそれ以上突っ込まれなかったことにホッとして、少し後退してから改めて疾を見る。思えば、鳥彦には最近の出来事を話しているけど疾には何一つ言っていない。疾にも話したいんだけど彼の方が一緒にいる時間が長いから、少しでも話してしまえば全てを見透かされてしまいそうで怖かった。
でも疾と同じで鳥彦も頭の回転が早いから、見透かされるという点では似たようなものだ。それでも鳥彦の方が僕の事情を知っているのは彼が僕を脅したからであって、疾はそんなことしないから言えないままなんだよね。鳥彦に話したのは失敗だったと、今更ながらに思う。現に彼は今、僕が隠していることに近付きつつある。
「なんだよ、人の顔をじっと見つめて」
「な、なんでもないよ」
「どもるほど熱心に見つめてくれちゃって」
「そんなんじゃないって」
疾にからかわれて困りながらも、僕はなんだかこの空気が久しぶりのような気がしていた。最近色々なことがあって頭も体も限界寸前だっただけに、和やかな時間に救われる。だけど僕が気を緩めていると、疾は急に真面目な顔つきになってしまった。
「で、決心はついた?」
態度の変化についていけなくて、最初何のことを言われているのか解らなかった。けれどすぐ、媚薬のことだと気付いて口唇を引き結ぶ。すっかり忘れてた。
「武、これは本当に必要なことなんだ。それに急がないといけない」
「……急ぐって、なんで?」
「媚薬に免疫が出来るまでには時間がかかるんだ。体質にもよるけど、少しずつ慣らしていかなければならないものだから、早いうちからやらないと手遅れになる」
具体的に何がどう手遅れになるのかは分からなかったけど、疾の言葉が不吉なものだったので血の気が引いた。僕は思わず俯いてしまったんだけど、疾は何も言ってこない。催促もされなかったので顔を上げてみると、疾は僕の返事を待っていたわけではなかった。
「疾……?」
「……えっ?」
「どう、したの?」
「何が?」
虚ろな瞳をしてぼんやりとあらぬ方向を見ていた疾は、急に正気に戻ったような表情で眉根を寄せた。僕の方が眉をひそめたい思いで、確認のために言葉を紡ぐ。
「今、自分が言ったこと覚えてるよね?」
「何の話をしていたんだっけ?」
「媚薬の話だけど……」
今さっきの出来事なのに、疾は遠い昔のことを思い出そうとしているみたいに考えこむ。僕は不安に襲われた。たった二ヶ月で彼のすべてを理解したわけじゃないけど、こんな疾は知らない。
「悪い、ちょっと考えごとをしてたらしい。僕は何を言ったんだ?」
「媚薬のこと……早くしないと手遅れになるって」
「……そう、早くしないと……」
「疾、」
僕は思わず、傍へ寄って疾の腕を掴んだ。僕が触れた瞬間にビクリと体を震わせた疾は、だけどいつもと同じ表情で僕を見る。
「どうしたのさ、そんな不安そうにして」
また、だ。また、瞬時にしていつもの彼に戻っている。憂い顔を見る以上にそれが不安で、だけど僕はもう何も言えなかった。どうしたのかと尋ねられても答えようがなくて、僕は小さく首を振って立ち上がる。
「武、」
「……ごめん」
それだけしか言えなくて、僕は疾と目を合わせないまま私室へ引き上げる。疾も、何も言ってこなかった。