13
誰かの声が聞こえた気がして、僕は目を開けた。いつも疾に起こされるから彼の声かと思ったんだけど、そうじゃないみたいだ。それ以前の問題として、ここは僕の部屋じゃない。いやに天井の高いこの場所は、どこなんだろう。
体を起こしてみると、ひどくだるかった。手足が鉛のように重たいし、頭も痛い。それに体が冷えきっていて、身震いするほどの寒さを感じた。風邪でもひいたかと思ったんだけど、床に転がっていた小瓶を目にしてそうじゃないことを思い出した。そういえば、ジャコウの香りにあてられたんだっけ。
改めて周囲を見回してみると、どうも閲覧室にいるみたいだった。あっちを向いてもこっちを向いても、本がある。もう朝みたいで、閲覧室の中には僕の他にも人がいるみたいだった。声が聞こえたような気がしたのは、その人達の話し声だったんだ。目覚めの気分は最悪だったけど、力尽きた場所が閲覧室だったのは不幸中の幸いだ。
床に転がっていたジャコウを回収して、僕はとにかく寮に戻ることにした。閲覧室を出て昇降口に向かったんだけど、やっぱり体が重い。床で寝てたから体の節々も痛くて、ゆっくり歩くのがやっとという感じだった。外に出てからは朝日の眩しさに追い討ちをかけられながら、体が動く範囲で先を急ぐ。そんな状態だったから、なんとか寮に辿り着いた時には息が弾んでいた。
必要以上に疲労しながら僕は寮の部屋に帰って来た。朝日の差し込んでいるリビングは僕が出掛けた時のままみたいで、物が動かされたような気配もない。疾の私室をノックしてみたんだけど返事はなかった。まだ朝も早いし、寝てるのかもしれない。そう思ったから呼びかけようとしたんだけど、口唇が開いても声が出なかった。そうだ、ジャコウにあてられた後は声も出なくなるんだった。仕方がないので無断で疾の私室に侵入して、念のためシャワールームも覗いて見る。だけど、どこにも疾の姿はなかった。
疾が夜の外出をすることは珍しくないけど、朝になっても帰ってないなんて僕の知る限りでは初めてだ。冴咲先生の意味深な科白も気になるし、やっぱり何かあったのかもしれない。そう思ったら居ても立っても居られなくなって、僕は901号室を飛び出した。行く当てなんてなかったけど鳥彦の顔が浮かんだので、とっさに三階下の彼の部屋に向かう。これで鳥彦までいなかったらどうしようって不安だったけど、ベルを鳴らしてしばらくすると扉が開いた。
「武? こんな早くに一体……」
鳥彦は驚いた顔をしていたけど、どうも寝起きではないみたいだった。鳥彦がいつもと同じ感じだったので僕は助けを求めて縋りつく。だけど声が出ないから、口を開いても何も伝えることが出来なかった。それでも鳥彦は僕の様子から何かを察してくれたみたいで、すぐ部屋に上げてくれた。私室に僕を招き入れてから、鳥彦は真剣な面持ちで口火を切る。
「武、その声が出ないのって麝香のせい?」
声に出して伝えられない状況でも鳥彦がすぐに理解してくれたからホッとした。僕が頷くと鳥彦は机の引き出しから何かを取り出して、それを差し出してくる。渡されたのは、いつかの中和剤。でもこれは、即効性の睡眠薬だったような……。
「フタを開けて、瓶をちょっと離して、手で風を送るように匂いを嗅いで」
言われた通りにしてみたけど、何のにおいも流れてこなかった。そういえば、これに匂いなんてなかったような気がする。
「これは……?」
声が出ないことも忘れて口を開いたら、かなり擦れてはいたけど言葉になった。これでとりあえず話は出来ると言って、鳥彦は僕の手から小瓶を取り上げる。そうだ、早く伝えないと。
「疾が何処にいるか知らない?」
「疾? 僕は知らないけど……どうかしたの?」
「いないんだ。帰ってないんだよ!」
「いつものことじゃないのか?」
怪訝そうな表情をしてる鳥彦には僕の焦りが少しも伝わっていないみたいだった。僕より鳥彦の方が疾との付き合いが長いから、彼がそう言うのならそうなのかもしれない。だけど今回は、違うんだ。でも何がどう違うのかをうまく説明出来なくて、言葉が見付からないことにイライラした。
「武、落ち着いて。疾が帰って来ないことに何か問題でもあるの?」
「疾が、もしかしたら危ないかもしれない」
何がどう危ないのかは僕にも分からないのだけど、冴咲先生の含みを持たせた言葉は僕にそう思わせるだけの威力があった。でも何も知らない鳥彦には僕の言ってることが呑みこめないみたいで、彼は眉根を寄せてる。
「どうしてそう思うんだ?」
僕は簡単に、夜の校舎で冴咲先生と会ったことなどを説明した。話が終わると鳥彦は、今度は深刻そうな表情になって何かを考えているみたいだった。
「武、生徒会の役員しか持つことを許されない麝香を与えられるということが、どういうことか分かる?」
短い沈黙の後、鳥彦はそんな風に話を切り出した。でも、そんなことを訊かれても僕に分かるはずもない。僕が首を振ると鳥彦は小さく息を吐いてから答えを口にした。
「つまり、生徒会役員に勧誘されているんだよ」
「勧誘?」
「玉田さんに会ったことといい、フロッピーや麝香のことといい、ずいぶん熱心に勧誘されているけど……武、君は一体……」
鳥彦は中途半端に言葉を切り上げて口をつぐんだ。それはきっと、僕がそれどころではないという表情をしていたからだろう。鳥彦には悪いけど、今は何を訊かれても上の空だ。
「そうだな、今は疾を探す方が先だ。行こう、心当たりを回ってみるから」
鳥彦がそう言って歩き出したので僕も後に続いた。だけど私室を出たところですぐ、鳥彦は歩みを止める。彼が振り返ったので僕は少しだけ首を傾けた。
「麝香は今、どこに?」
閲覧室を出てからはポケットに入れっぱなしだったので、僕は小瓶を取り出して鳥彦に渡した。小瓶を受け取った鳥彦はフタを開けることはせずに、掌で弄ぶようにしながら観察してる。
「ずいぶんと減っているみたいだけど、使ったの?」
「……使いたくて使ったわけじゃないけどね」
鳥彦が首を傾げたので、僕は昨夜の出来事をかいつまんで説明した。僕の話を聞いた鳥彦は苦笑しながら、またずいぶんと扱いにくいものをプレゼントされたねと言う。KINGDOMにアクセス出来るフロッピーと同じで僕はもう、これを自分の意思で使うことはないだろう。そのまま鳥彦にあげても良かったんだけど、彼は僕の手にジャコウを握らせた。
「せっかく戴いたんだ、活用させてもらいなよ」
そんなことを言いながら鳥彦が再び歩き出したので、僕は小瓶をポケットにしまいながら後に続いた。こんなもの、本当はいらない。こんなものが必要なこの学園の校風も嫌だ。
「疾のことは心配いらないと思うよ。冴咲さんは他人の嫌がることをして楽しむ人だから」
鳥彦の言うことがあまりにも的を射ていたので僕は何度も頷いてしまった。確かに、あの人ならやりそうだ。疾のことも、単に僕へのイヤガラセだったならいいんだけど……。
「体の方は大丈夫?」
「さっきよりは楽」
鳥彦がくれた中和剤のおかげでだるさはだいぶマシになっていたけど、喋るのはまだ少し辛かった。鳥彦もすぐに察してくれたみたいで、彼は「そう」と呟いたきり無言で歩を進める。エレベーターで一階まで下りて、僕達はそのまま寮を後にした。
寮を出てからは鳥彦の言う『心当たり』を一通り巡ってみたんだけど、けっきょく疾はどこにもいなかった。始業の頃になると僕の体も限界に近くて、鳥彦に肩を貸してもらいながら寮に戻ることになってしまった。だけどクタクタになって帰って来た部屋の中には、あれだけ歩き回っても会えなかった疾の姿があって。
「やっと帰って来たか」
「は、疾……」
「一体何処に行ってたのさ」
僕を問い詰める疾の口調も訝しげな表情も、いつもと何も変わらない。疾がいつも通りでいることを願っていたのは僕だけど、彼があまりにも平然としてるから少し憤りを感じた。
「それはこっちの科白だよ。今まで何処に行ってたんだ?」
「何を怒ってるんだ? 僕が留守にすることなんて、いつものことじゃないか」
それは、そうだ。確かにそうなんだけど……。やっぱり僕は、冴咲先生に遊ばれたんだろうか。そう思ったら安心するのと同時にどっと疲れが出た。
「……もう、いい」
怒る体力も話をする気力もなくて、僕はさっさと私室へ引き上げた。私室の鍵をちゃんと掛けて、ジャコウの小瓶を引き出しにしまってから、ベッドに倒れこむ。疾も何も言ってこなかったので、僕はそのまま深い眠りに落ちて行った。