12
『女は冴咲か。いっけないんだ』
なんとか先生の腕の中から抜け出すと、不意に疾が言っていたことを思い出した。冴咲って、そうだ、疾と飛び込んだ雑然とした部屋で聞いた名前だ。
「なーに? 突然真っ赤になっちゃって」
「な、なんでもありません!」
首を傾げる先生を見ないように、僕は顔を背けた。あの物置部屋みたいな場所での出来事は衝撃的すぎる。
「ま、いいわ。ほんとに初なのね、噂の編入生くんは」
「先生!!」
「まあ、先生なんて呼ばれたの久しぶりだわ」
魔の手から逃れたい一心で僕が口走った一言に、先生は感動したみたいだった。とりあえず迫って来るのはやめてくれたけど、先生は自分の世界に浸ってる。このままじゃラチがあかないから、僕は遠慮しながら声をかけた。
「あ、あの……」
「ああ、ごめんなさい。久しぶりの響きについ酔っちゃったわ」
「……用件を、早く言って下さい」
夜の校舎は危険だ。ただでさえそういう場所なのに、今の僕は見知らぬ人達に追われている。いちおう撒いてから集会室に来たけど、そう簡単に諦めるとも思えなかった。それに、早く寮に戻らないと疾が帰って来てしまうかもしれない。そっちの方が厄介なことに気がついて、僕はだんだん焦ってきた。
「ルームメートのことを心配しているのね。でも、それなら心配無用よ」
「……え?」
「彼は今夜帰らないから。遅くなっても全然オッケーよ」
先生は悩ましげなウインクを寄越してきたけど、意味が分からない。疾が帰らないって、どういうこと? しかもそれを、何で先生が知っているんだろう。
「どうしてですか? 疾は何処に……」
「人のことより自分の心配をした方がいいんじゃない?」
「どういう……」
言いかけて、ハッとした。廊下を走るような足音がこっちに近付いて来ている。しかも一人や二人のものじゃなく、もっと複数の足音だ。
「まあ、あれだけ大騒ぎしてれば誰か見に来るでしょうね」
もしかして先生、こうなることが分かっててわざと僕に迫ってたんだろうか。そうだとしたら性格が悪すぎる。だけどもう文句を言ってる場合じゃなくなってたから、僕は逃げる準備をするために扉の近くへ移動することにした。
「そうそう、ちょっと待ってよ」
歩き出そうとした僕の腕を、先生が引っ張った。何かと思って振り向いたら小箱を突き出されたので、思わず受け取る。返却は受け付けないと言わんばかりに、先生は素早く僕から離れた。
「何ですか、これ?」
「麝香が入っているわ。あなたへのプレゼントだそうよ」
ジャコウ……また嫌な名前を持ち出されたものだ。これのせいで、僕はひどい目にあっている。
「ほらほら、しかめっ面してる場合じゃないわよ」
先生の言うように、廊下を走る足音はどんどんこっちに近付いて来ている。僕は小箱を抱えたまま扉の近くに寄って、その場にしゃがみこんだ。
「無事に逃げ切れるといいわね」
先生が楽しげにそんな一言を寄越してくるから、泣きたくなった。でも僕が身を潜めてる側の扉が勢いよく開かれたので、息を殺す。
「あ? なんだ、冴咲じゃねえか」
「はぁい。お久しぶり」
「なんだ、冴咲?」
「なんで冴咲がこんな所にいるんだ?」
僕がいる側のドアから、次々に生徒が雪崩れ込んでくる。あまりにも距離が近くてヒヤヒヤするけど、足下って意外と死角なんだよね。誰も僕に気がつかなかったみたいで、みんな僕に背中を向けている。追っ手が先生と話している隙に、僕はこっそり移動を開始した。
「そーいえば俺たち、例の編入生探してんだけど知らないか?」
「ああ。彼ならほら、そこに」
無事に逃げ切れるといいわねとか言っておきながら、この仕打ちはひどすぎる。でも先生と話してた人達がいっせいに振り返ったから文句を言う暇もなくて、僕は慌てて走り出した。背後から追いかけて来る人達の足音と声がする。あそこで先生が余計なことを言わなければ無事に脱出出来たのに。
ジャコウの入った小箱を抱きながら、僕はとにかく走り続けた。目指しているのはもちろん昇降口なんだけど、見張りとか立てられてたらどうしよう。そんな心配をしてたんだけど、それは杞憂に終わった。だけど人気のない昇降口で、僕は別のことに絶望した。
開かない! 押しても引いても、昇降口の扉が開かない。内側からでも解除ナンバーが必要なんて聞いてないよ!
「いたぞ!」
背後から声が上がったので僕は下駄箱を縫うように走りながら再び廊下に出た。僕にはとことん選択肢がないらしく、またしても夜の校舎を疾走する。もしかして、朝になるまで逃げ続けなければならないんだろうか。そんなの冗談じゃない。相手は複数だ、僕の体力が尽きる方が先に決まってる。
どこでもいいから隠れられる場所がないかと、僕は周囲に気を配りながら走っていた。それが逆に意識を分散させてしまったみたいで、気がつけば追いつめられていた。背後は行き止まり、目の前には数人の生徒、これじゃ逃げ場がない。肩で荒い息をしてる生徒達は僕が困っているのを愉しむように、ゆっくりと距離を縮めてきた。
「久しぶりに、楽しませて、くれるじゃん」
「でも、そろそろ夜が明けちまうんでな。いいかげん大人しくしてもらおうか」
息を切らせてる人とまだ余裕がある人がいるみたいだったけど、誰もが下卑た笑いを浮かべてるって点は同じだった。行き止まりに向かって少しずつ後退してたんだけど、ついに背中が壁に触れてしまう。これで本当に逃げ場がなくなった。残された道は正面突破。出来る出来ないの問題じゃなくて、やるしかない。
「何を大事そうに抱えてるんだ?」
無意識のうちにジャコウが入った小箱を抱きしめてたみたいで、誰かがそんな声を上げた。彼らの興味が僕から逸れた一瞬を狙って走り出したんだけど、人垣は厚かった。前の方にいた二・三人は通過出来たんだけど、そこで腕を取られて引き倒される。うつ伏せに倒れた僕の背中に誰かが乗ってきたけど、それでも僕は逃れようと暴れた。
「いいかげんタフだね」
タフなのは新聞部に追いかけ回されてるからなんだけど、それもこうなってしまっては何の役にも立たない。体力はあるけど腕力がないから、のしかかってきてる人を跳ね除けることが出来ないんだ。それでも、諦めたくはなかった。
「これ、何が入ってんだ?」
僕の手から離れた小箱を拾い上げた人が、中身を取り出しながら不思議そうに言っている。その人が中身である瓶のフタまで開けてしまったので、僕は急いで息を止めた。その一瞬後、僕の周囲にいた人達がバタバタと倒れていく。押さえつけられていた力がなくなったので、僕は急いで小瓶を回収してフタを閉めた。だけど液体の半分以上は廊下に流れ出ていて、むせ返るほどの甘いにおいが漂ってる。痛み出した頭を片手で支えながら、僕はただこの場から遠ざかるためだけに足を動かした。
体がだるい。手足が重くて、思うように動いてくれない。たぶん、声も出なくなっているだろう。でも意識があるだけマシだ。あれだけバタバタと生徒が倒れていった中で、とっさに息を止めていたとはいえ、どうして僕だけ意識があるんだろう。そんなことを考えたけど、すぐにやめた。考えても仕方がなかったし、なにより思考が麻痺してきたからだ。もう、寮に戻るのも無理だろう。
『彼は今夜帰らないから』
冴咲先生が言っていた、妙に含みを持たせたような一言が気になる。疾は、どうしたのだろう。
壁に肩をこすりつけるようにしてなんとか歩いてたんだけど、やがて視界まで霞んできた。もう、倒れるのも時間の問題だ。だったらせめて、廊下ではなく何処かの部屋に入りたい。朦朧としてる意識の片隅でそんなことを考えて、僕は手近にあった部屋の扉を開けた。その後はとにかく奥まった場所を目指して歩いてたんだけど、気がつけば頬が冷たい床にはりついている。倒れたみたいだと思ったのを最後に、僕の意識は途絶えた。




