10
「あれ、疾に武」
僕達がなんとなく気まずい雰囲気になっていると、どこかで鳥彦の声がした。声が聞こえてきた方に顔を傾けて、僕は少しだけ眉根を寄せる。
「彦、お前来るのなら……」
重苦しい空気を拭った疾はいつもの彼に戻って口を開いたんだけど、言葉が終わらないうちに黙り込んでしまった。それはたぶん、僕が眉をひそめたのと同じ理由だと思う。こっちに向かって来た鳥彦の隣に、毅がいたから。
「よう。まさかこんな所で会うとは思わなかったぜ」
そんな風に声をかけてきた毅の目は、疾を無視して僕だけに向けられている。僕は思わず、一歩後退してしまった。気安いのは別にいいんだけど毅の表情はどこかふてぶてしくて、一度痛い思いをしているだけに自然と警戒しちゃうよ。
「まだ何も知らない初心者かと思ってたが、実は結構遊んでるらしいな」
案の定と言うか何と言うか、毅は笑いながら嫌味っぽいことを言う。やっぱりこの人、苦手だ。妙な迫力があるから体が勝手に逃げてしまう。
「毅、からかうのもいいかげんにしておきなよ」
毅が発する重圧から僕を救ってくれたのは鳥彦だった。鳥彦が口を開くのがもう少し遅かったら、たぶん疾がキレていただろう。僕がそう感じるほど、疾は静かな怒りを漲らせていた。
「ちぇ。つまらんの」
鳥彦に向かって笑いかけながら、毅はあっさり引き下がる。それを見て疾が少し表情を緩めてくれたから、僕もホッとして肩の力を抜いた。
「それにしても、武にこんな所で会うとは思わなかったよ」
「それは……」
鳥彦に応えようとして、僕は言葉を詰まらせた。いつもなら疾に無理矢理連れて来られたとか応えるところだけど、さっき気まずい雰囲気になったばっかりだからそれを言うにはためらいがある。僕が応えられないでいると疾が真顔のまま口を挟んだ。
「僕が連れて来たんだ。そろそろ武も媚薬の一つくらい持っていた方がいいと思ってね」
疾がそんな風に考えてたなんて知らなかったから、僕は改めてギョッとした。そんなもの、僕が持っていて何になるっていうんだ。
「ぼ、僕はいいよ」
「自分の立場をまったく理解してないようだな」
呆れた様子でそんなことを言ったのは毅だった。言われてる意味が分からなくて、僕は眉をひそめながら毅に視線を傾ける。
「僕の立場?」
僕が関心を見せたからなのか、毅はニヤリと笑った。だけど答えてくれる気はないみたいで、いっこうに口を開く気配を見せない。僕が焦れていると鳥彦が毅を牽制した。
「今はこの話はよそう。こんな所でする話じゃない」
「そうだな。もう行こう、武」
疾も鳥彦の意見に同意して、さっさと毅に背を向けた。僕は慌てて疾の後を追おうとしたんだけど、その前に鳥彦が声を上げる。
「あ、待って。今日仕入れた物の中に武向きなやつがあるんだ。よかったら買っていかない?」
「どんなやつだ?」
すでに歩き出していた疾も興味を示して、鳥彦の所に戻って来た。話はまだ続くみたいなので、僕も立ち止まる。なんだか疾も鳥彦も、僕が買うことを前提に話を進めてるみたいだ。
「比較的軽くて、扱うにも便利なやつ。二万でいいよ」
「本気か? 仕入れ値の半額以下じゃないか」
「武は初心者だからね。これくらいならまけてもいいでしょ」
「ほんとお人好しだな。そんなんじゃいつか破産するぞ」
僕には彼らが何の話をしているのか分からなかったんだけど、呆れ顔をしてる毅に対して鳥彦はいたって平然としていた。毅が口を出したせいで話が逸れてしまったからなのか、疾が少し嫌そうな表情をする。
「彦がいいって言ってるんだからいいじゃないか。変に口を挟むなよ」
疾はもともと毅を嫌ってるから、口調も態度も刺々しかった。鳥彦と和やかに話をしていた毅もカチンときたのか閉口して、無言で疾を見てる。嫌な静寂が、流れた。
「鳥彦、俺はこれで失礼するよ。また寮でな」
しばらくの沈黙の後、毅は鳥彦に言い置くと階段の方へ去って行った。一触即発の緊迫感がなくなったので、僕は密かに息を吐く。疾も気が短いところがあるから、いつ殴り合いになるかとヒヤヒヤするよ。
「毅にも悪気はないんだ。彼はああいう性格なんだよ」
疾に毅の話を聞かせないためなのか、鳥彦が僕の耳元で囁いた。そんなこと言われても反応のしようがなくて、僕は苦笑を返す。鳥彦の声は内緒話をするにはやや大きいものだったので、疾が嫌そうな表情のまま振り返った。
「聞こえてるぜ」
「疾にも聞こえるように言ったんだよ」
鳥彦が笑いながら言うと疾は疲れたようにため息をついた。さすが、鳥彦。そのくらい大らかじゃなきゃ、あの毅と同室でいられないよね。
「それで、どんなやつなんだ?」
毅の話題にはうんざりしたみたいで、疾が話を元に戻した。疾の言葉を受けて、鳥彦は制服のポケットから小瓶を取り出す。
「これだよ」
「液状か」
「扱いやすいし、悪くないと思うよ」
鳥彦が人差し指と親指で挟んで見せている小瓶にはオレンジ色の液体が注入されていた。鳥彦から小瓶を受け取った疾はフタを開けて、においを確かめるように顔に近づける。
「悪くないな。少し効果がある程度がちょうどいいだろうから」
「まだ免疫がないからね。そのくらいが適当だと思う」
「武、自分で試してみろよ」
そう言って、疾が小瓶を差し出してきた。突然のことだったから思わず受け取っちゃったけど、試してみろって言われてもどうすればいいのか分からない。僕が困っていると、疾がすぐ説明を加えてくれた。
「まず、においを嗅いでみろよ」
フタは開いたままだったので、言われたとおり小瓶に顔を近づけてみた。何だろう、この匂い。柑橘系なのは分かるけど、何の匂いなのかまでは特定出来ない。でも別に、嫌なにおいじゃない。そう思ってたのに、突然めまいに襲われた。立っているのも危うくなったところを、疾が支えてくれる。
「この程度でこれなら、慣れるまで時間がかかるだろうね」
落ちそうになっていた小瓶を僕の手から取り上げて、フタを閉めながら鳥彦が言う。疾もすぐ、鳥彦の意見に同意した。
「体内に入れた時にどうなるかも試してみたいな」
「そうだね。寮に帰ったら試してみるといいんじゃない」
疾も鳥彦もそれが当然みたいな口ぶりで話してるけど、あれを体に入れるだなんてとんでもない。ちょっとにおいを嗅いだだけでへたり込む羽目になってるのに、あんな物を飲まされたら……。ジャコウにあてられた時のことが蘇って、ゾッとした。
「どのみちここに長くいるのもまずい。武、そろそろ寮に……」
振り返った疾が僕の顔を見て言葉を切った。僕は今、たぶん青い顔をしているんだと思う。気分が悪かった。
「……武、」
そんな風に困った表情をされても、僕の方が困る。疾に見つめられていると逃げ出したい衝動に駆られて、体がすでに後退を始めてる。いくら疾がそうした方がいいと言っても、あれを飲むのだけは嫌だった。
「……場所を変えないか?」
鳥彦が口を挟んだのでそっちを向くと、彼はしきりに周囲を気にしていた。それもそのはずで、僕達の傍を通る人が皆こっちを見てる。今まで気付かなかったけど、どうやらこの場所に僕がいるだけで目立ちすぎるらしい。鳥彦の提案に頷いた疾が僕を庇ってくれるみたいにして歩き出したから、僕はそのことを実感してしまった。
階段を上り始めてからは誰も口を開かなくて、僕達はけっきょく一言も言葉を交わさずに寮へと戻った。E号棟の901号室に着くと僕と鳥彦がリビングのソファに腰を下ろして、テーブルを挟んで向き合う形で疾が一人がけのイスに座る。二人の視線が僕に集中していたので、あまりの居心地の悪さに口を開くことが出来なかった。
「武、この学園では誰でも媚薬を常備している」
そう言って話を切り出したのは疾だった。ため息のように小さく息を吐き出してから、彼は言葉を続ける。
「そして皆、有効に自分の持ってる媚薬を使ってる。意中の相手を誘う時や無理矢理意識を奪うためなんかに、だ。綺麗事じゃ済まない、それが暗黙のルールなんだ」
この学園にいる限り、誰も目を背けることは出来ない。疾がそういう意味で言っていることくらい僕にだって解ってる。特に僕の場合は編入生というだけで目立ってしまっているから、やがては闇のルールによる洗礼を受けるかもしれないのだ。前にこの部屋で、会ったこともない生徒達に取り囲まれたように。
「だけど、使い道はそれだけじゃないんだよ」
僕が返事も出来ずに俯いてると、今度は鳥彦が声を上げた。僕は顔を上げられないまま、鳥彦の話に耳を傾ける。
「媚薬に免疫を持っていれば効果は薄くなる。だから免疫を作るために徐々に馴染ませていく人もいるんだ」
「武にとっての活用法は彦が言った方だろ。何が起こるかわからないんだ、僕がいつも守ってあげられるとも限らない。だから媚薬に免疫を作っておくことは、武にとって必要なことなんだ」
疾の言うように、確かに僕は彼に頼りすぎている。自分の身は自分で護らなきゃいけない、そのことも解ってはいるのだけれど……。
僕の横に座っている鳥彦が、何かをテーブルの上に置いた。顔を上げて見てみると、それはオレンジ色の液体が入った小瓶だった。
「さっきは武の気持ちも考えずにあんな会話をして悪かったと思っているよ。僕達には強要することは出来ない。どうするかは武が決めることなんだ」
鳥彦に真剣そのものの表情で見据えられて、僕は不意に昼間の出来事を思い出してしまった。強すぎる鳥彦の瞳から逃れようと視線を泳がせてみても、疾も無言で僕の決心を待っている。目の遣り場に困って、僕はまた俯いてしまった。
「……少し、考えさせて」
長い沈黙の末、僕が言えたのはそれだけだった。息を詰めて僕の返答を待っていた疾と鳥彦は、そこでひとまず息を吐く。
「それがいいかもしれないな」
「でも武、一応持っていて。使い道はあると思うから」
鳥彦に促されたので仕方なく小瓶を拾ってから、僕は私室に引き上げた。リビングに残った疾と鳥彦はその後も話をしてたみたいだったけど、やがて玄関の開く音が聞こえてきたから鳥彦は帰ったみたいだ。疾も私室に戻ったみたいで、リビングはもうしんとしてる。ベッドの上でそれらの音を聞いてた僕の目は、手にしている小瓶に向けられたままだった。
薄い、オレンジ色の液体。媚薬……。何で、ここではそんな物がごく普通に売られているんだろう。編入する前からいわくつきとは聞いていたけど、ここまで普通からかけ離れているとは思わなかった。
この学園の生徒達は狭い共同体の中で、広い社会の常識が適用されずに生活してる。弱肉強食の考え方の中では貶められた方が悪いことになってしまっているから、皆そうならないために狡猾になっていくんだ。この学園で生活していれば確かに、利口に生きる手段を身につけることが出来ると思う。だけどやっぱり、何かが狂ってる。
「何で今さら、僕を呼びつけたりしたのさ……」
問いかけたい科白を独り言として呟いてみても、答えてくれる人は目の前にいない。唇を噛んで、僕は小瓶を握ったまま枕に顔を押し付けた。