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十四歳の春、僕は養育院を出て、いわくつきの学園に編入した。六歳から十八歳までの生徒を一貫して教育するその学園は全寮制の男子校で、一度入学すると卒業するまで出られない。のんびりした養育院での生活に不満はなかったんだけど、僕は密やかに悪名高いと噂されている学園に行かなくちゃならなかった。ちょっとした事情が、あったから。
「武、」
呼ばれたから振り返ってみると、そこには寮で同室の疾がいた。彼は周囲から『儚げな美少年』と称される少年だ。そんな呼び名が校内で普通に使われてるのが、もう驚きだよね。
でも容姿だけ見たら、これほど疾にピッタリの表現もないかと思う。彼の色白な肌と、いつもしっとり濡れているような瞳がそう思わせるのかな。すらりと伸びた細い手足を持て余すように座りながら色素の薄い髪を陽にきらめかせて無言で窓の外とか眺めていたら、彼の姿はもう名画みたいだ。それに疾、運動神経も抜群で頭もいいんだよね。だけど性格は、大胆で行動的。とてもじゃないけど『儚い』なんて形容詞は似合わない。
「疾。よかった、探してたんだ」
疾の姿がいつの間にか教室から消えていたから、僕は彼を探して廊下をうろうろしていたところだった。僕は疾に会えてホッとしたんだけど、疾は僕の反応を見て苦笑する。
「そんなあからさまな顔をするなよ」
「だって……」
教室にいても廊下にいても、視線が痛い。そう言いかけたら疾の手に口を塞がれた。
「正直な感想は顔だけで十分。言葉になんてした日には恐ろしいことになるぞ?」
僕のような反応をする人は、この学園には二人といない。それが珍しいのか知らないけど、絡まれることが多いんだよね。今も廊下のあちこちで、生徒が僕達のやりとりに注目してる。疾の忠告がもっともだったので僕は大人しく黙った。僕に通じたことを確認してから、疾は手を離す。
「そうそう、利口に過ごすのが一番だよ。特にここではね」
そう言って微笑んだ後、疾は着いて来いと言うように歩き出した。僕はいつものように、彼の後に続く。僕が制止の声を上げないのをいいことに、疾は校舎を抜け出して寮の方に足を向けた。一応、今は授業中なんだけどね。
寮は全部で五棟あって、A〜E号棟で呼ばれている。大体が十階建てになっているんだけど、上の階ほど上級生が住んでいるのかといえばそうでもない。僕達の歳だと学園の中では中流だけど、901号室が僕達の部屋だから。ちなみに、僕達の部屋があるのはE号棟。
この学園では全ての決定権が生徒にあって、寮の管理も生徒に任されている。だから授業中でも寮に侵入するのは簡単なことなんだよね。まじめに授業を受けてる生徒なんて、ほとんどいないから。
「武もそろそろ慣れないとな。卒業するまでは何があっても抜けられないんだから」
エレベーターホールで待っている間、疾が不意にそんなことを言い出した。彼の言うことはもっともだったんだけど、僕はちょっと嫌な表情を作る。
「僕はこの春まで普通の学校に通ってたんだよ? そんなすぐには馴染めないよ」
普通の学校と言っても、養育院の中で勉強してただけなんだけどね。だから厳密に言えば、僕は『普通の学校』には通ったことがない。だけど養育院にいたことは疾にも話してないから、そういうことになっていた。でもそれを抜きにしても、ここはあまりにも『普通』とかけ離れてる。これから先、慣れることなんて出来るんだろうか。そこまでは口に出さなかったけど、疾は僕の顔色を読んだみたいで苦笑した。
「武の言い分も分からないではないけどね。それでも、編入は自分で選んだことだろ?」
「……まあね」
本当は違うけど、それは言わない。疾は頭の回転が早いだけじゃなくて勘もいいから、ちょっとでも変なことを言うと突っ込まれそうで怖かった。
「疾はずっとこの学園だっけ?」
「そ。僕はずっとここ」
話題を変えるために僕が投げかけた質問に、疾はどこか素っ気ない調子で答えた。彼はそれきり閉口してしまったので、訊いちゃいけないことだったのかもしれない。僕も口をつぐんだところで、ちょうどエレベーターが来た。
「エレベーターって苦手なんだよね」
乗り込んでから口を開くと、疾は僕の方に顔を傾けてきた。真顔のままだったけど、彼の表情に険しさはない。さっき妙な雰囲気になったから気まずくなっちゃうかもと思ったけど、大丈夫みたいだ。
疾の様子をみるために切り出した話題だったけど、僕がエレベーターを苦手に思っているのも本当なんだよね。密閉された空間にも息が詰まるけど、なにより振動が嫌だ。いつも耳の調子がおかしくなる。
「じゃあ、そんな武に一つ忠告だ。一人の時はなるべくエレベーターを使わないこと」
「疾の忠告はためになるからね。素直に聞いとくよ」
そうなんだ、理由を訊かなくても疾の忠告はためになる。彼と出会ってから、どれだけそれに助けられたことか。それに、僕にはまだ一人で寮を動き回る度胸もない。校舎なら少しはマシなんだけど、やっぱりそれも長くは続かないんだよね。そして結局、僕は疾を探してしまうのだ。
エレベーターはすぐ九階に到着して僕達を吐き出した。エレベーターはそれぞれの階の中央に辿り着くようになっているので、僕達は角部屋に向かって人気のない廊下を歩き出す。玄関はオートロック式なので鍵は必要なくて、暗証番号を入力することによって開くんだ。中へ入ると疾がリビングのソファに座ったので僕もそこに残った。
「今夜、出掛けるから。武はしっかり戸締りして早く寝ること」
そう言って、疾が夜に外出するのはしょっちゅうのことだ。何処に行くのか想像すると怖いので、僕はいつも考えないことにしている。
「いってらっしゃい」
決まり文句を言って顔の横で軽く手を振ってみせると疾は怪訝そうな表情をした。
「いっつも思うんだけどさ、何処に行くのか訊かないのか?」
「いい。聞くと後悔しそうだから」
「賢明だな」
僕の答えに満足したように疾は笑ってみせた。こういう時、僕にはため息をつくことくらいしか出来ない。そんな風にいつものやりとりをしていると来客を知らせるベルが鳴った。ソファから立ち上がった疾がリビングの片隅にあるドアホンに向かう。
「誰だ?」
ドアホンに向かって問いかけながら、疾は画面を操作して来客の姿を映し出す。そこには、僕も知っている少年の姿が映し出された。
『僕だよ、鳥彦』
監視カメラに向かって手を振りながら鳥彦が和やかな微笑みを浮かべてる。ドアホンに向かって「入れよ」と言って、疾はリビングと玄関を隔ててる扉を開け放した。疾と鳥彦は仲がいいみたいで、よく一緒にいる姿を見かける。疾に勧められてリビングのソファに腰を落ち着けた鳥彦は、大方今夜の打ち合わせにでも来たんだろう。ジャマしちゃ悪いから、僕は席を立った。
「部屋に行くね」
「気にすることないのに。いればいいじゃないか」
「そうだよ、武」
疾に続いて鳥彦まで、そんなことを言い出した。僕がいつも席を外すのは別に気を利かせてるわけじゃなくて、彼らの会話に立ち入るのは勇気がいるからなんだよね。
「いいよ、僕は」
やっぱり遠慮したかったので、それだけ言うとさっさと退散した。私室に入るとリビングとはまた違った安心感があって落ち着く。何となく疲れてたので僕はそのままベッドに転がった。やっぱり、ここが一番いい。
いつも気を張っていなくちゃいけない生活を始めて、約二ヶ月。疾の言うように、そろそろここの空気にも慣れなくちゃいけない。そう思ってはいるんだけど、そう簡単に馴染める環境じゃないんだよね。でも、もう後戻りも出来ない。だったら慣れるしかない。この問題について考え出すと、いつもこんな風に堂々巡りになる。疲れるから、もう考えるのはよそう。
「武」
軽いノックの音と共に疾の声がした。ベッドに寝転がったまま「入っていいよ」って言ったらドアが開いたんだけど、僕の傍にやって来た疾は何故か眉をひそめてる。
「無防備だな。鍵も掛けてないのか」
「鍵なんて玄関についてるんだから大丈夫だよ」
「あんなのアテになるもんか。自室の、掛けといた方がいいぞ」
「鳥彦は?」
お説教を聞き流しながら話題を変えると疾はため息をつきながらベッドに腰かけてきた。疾の重みの分だけ、スプリングが少し軋む。
「帰ったよ」
「ふうん」
「彦のことが気になるのか?」
「別に、そういう訳じゃないけど……」
「そうだよな。武はここの人間には誰にも興味がないんだよな」
「……意地が悪い」
「でも事実だろう?」
それまで僕を見下ろしながら話をしていた疾は素っ気なく言葉を切ってそっぽを向いた。起き上がったけど何も言えなくて、僕はけっきょく俯く。
「早く慣れろよ」
……分かってる。でもそんな一言すら口に出来なくて、僕は黙ったまま小さく頷いた。