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感謝の言葉を

作者: 鈴原シロト

今回公募の為の絵を制作するにあたり、ご協力を仰いだ人が居ます。絵の工程は様々ありますが、アイディアにアドバイスをもらう工程や、キャンバスを張る力仕事の工程で、その方のお世話になりました。

 私は壇上でマイクの前に立っている。目線は両手で持った四つ折りの紙に向ける。

肩が固まる。手に持った紙も、力が込められ折れ曲がる。湿った手のせいで、端に透明なシミが見えている。指の末端が少し痛いような気がする。これじゃあいけない。これじゃあ。

私はゆっくり、等速度で息を吐く。そして、顔を正面へ向ける。少しでも緊張を和らげるのが目的だ。ついでに、あの人がどこに居るのか分かればもっとありがたい。二人でこの会場に来たものの、スピーチの為に途中で別れたから、あの人がどこに居るのか、私は知らない。私が言葉を伝えたい唯一の人は、どこでこちらを見ているのだろうか。頭の後ろ、記憶の中で、その人の顔を思い出す。気だるそうな顔が一番に浮かんで、思わず頬の筋肉が和らぐ。それで大分、体の方の硬さは薄くなる。緊張はまだ、ほんの少し残っているから、他人から見るとひきつった笑顔に見えるかもしれないけれど。

目線をほうぼうへ移す。一定の時間が経ったところで、それを止める。しばらくして再び正面を見る。そして口を開く。

 私がお世話になったのは。

 部活の顧問の(たいら)先生です。

 会場は凪と化している。つかの間の凪だ。その空間で発せられる音は、一人の学生絵描きによるもののみ。ここでなら、言えるだろう。伝えられるだろう。私が言いたいこと全て。私は言葉を続ける。

 うちの顧問は、放任主義で有名です。部活にも時々しか来ないし、来てもすぐ帰るし。授業も、最初の説明以外は特に何も話さず、課題となっている作品を、期日に合わせた提出さえすればよし。という感じで、生徒に任せていて。公募への参加も任意で。やる気が無い方、という風に思われてるみたいなんです、普段から仕事が忙しいのは知られていますが。部に対して貢献していないと思われているようです。

 丈の長いエプロン。先端が少し反り返った黒髪。細められた目と、猫背気味の立ち姿。私は平先生の要旨を思い出す。先生がやる気のない人と思われているのは、その気だるげな見た目のせいでもあるのだろう、おそらく。

 ──でも、実はそうではなく。

 とても熱心に部活の補助をしてくださってます。気が付く人が少ないだけで。例えば。

絵具や筆、絵の教本や画集がいつの間にか増えていたり、筆やパレットなどの絵描き用の道具がいつの間にか綺麗に手入れされていたり。作品制作に際して質問すると、詳しく答えてくれて。よくある表現をするのなら、生徒と部員を影ながら支えている、でしょうか。その様子と恩恵に気が付く人が少ないだけで。

頭の後ろに浮かぶ、記憶。電灯のついた美術室、二人きり。他の生徒の喧騒、スポーツ部の掛け声など、全ての周囲の音は遠くかすんで聞こえる。私の向かいにいる人は、麻布を伸ばすのに使うペンチを持っている。関節が角ばっている手と、鮮やかな色が隙間に入り込んだ爪が見える。

力いっぱい布を伸ばすその顔には、確かに真剣さがある。

──いい先生という基準は、人によって異なると思います。ひとの行動に対してどう感じるかの問題ですから。毎日ちゃんと監督する顧問の方がいいと思う人もいる。うちの学校の生徒なら、美術部顧問の先生がいい先生ではない、と考える人も一定数いる。その気持ちは分かります。

ですが、少なくとも私は。(たいら)先生はいい先生──部員の事を思ってくれている先生だと考えています。

そのうえで、今から感謝を申し上げます。

平正人先生。この度は絵画制作にご協力いただき有難うございました。先生の指導と助言、そして制作と応募に際してのサポートが無ければ、今回の結果は得られなかったでしょう。心より感謝申し上げます。心の、底の底から。これにてスピーチを終わります。ご清聴いただき、有難うございました。

 私は一礼する。拍手の波が数回、その後。徐々にその波は強く打ち上げる。それを全身に受けながら、私は舞台袖へと歩いて行った。


 白い壁が囲む展覧会会場を、奥へ奥へと歩いていく。ある場所を境に天井が低く、道が狭くなる。鼠色のコンクリートで作られた廊下は、いたって質素だ。絵の搬出の為にここに来た。持ち込んだ絵をトラックに運び、学校へ持ち帰るのだ。そのため人が多く集まっている。隙間を通り抜け、通り抜け、所属する学校の集合場所に辿り着く。見ると、私の絵は既に取り外されていた。

「うん、やっぱり。いい絵だ」

 男性の声。声を発して後、こちらを見る。

鮮やかな色でまとめられた、シュルレアリスムに近い系統の絵。先ほどまで壁につるされていた、一メートルを超える大きな絵。床にそれを置き、上に片腕を乗せ、頬杖をつきながら支え持っている男性は。

「平先生。お待たせしました」

「おう。遅かったな」

「すみません。──じゃあ、これ運びますね」

 私は自分の絵を指さして言った。先生と位置を交代し、裏側からキャンバスを持った。重さはそれほどでもない。一人でも問題なく持てる。少々持ち運びづらくはあるが。麻布を平らに引き延ばし支える木枠、それの中央にある交差部分に両手をかける。

「大丈夫か。運びづらそうだが」

「大丈夫です」

「本当に大丈夫か」

「大丈夫です」

 そう言った直後、キャンバスの質量が小さくなったように感じた。正確に言うとそれは錯覚だが。先生がキャンバスを持ったのだ。私の前に立ち木枠の角を掴んでいる。その証拠に、手は私とは違い角ばっていて、爪の隙間に鮮やかな色が入り込んでいる。

「一人で持てます」

「素直じゃあないなあ。手伝うぞ」

 私は軽くため息をつく。一人で持ちますから、そう言おうとしたが、やめた。悪い気はしていない。

 二人で廊下を歩く。何となくまっすぐ前を見ることが出来なくて、床を見ながら私は歩く。早まったままの鼓動はまだ静かにならない。スピーチの前からこうだった。もう発表は終わったというのに、むしろ激しくなったような気さえする。言いたいことは、伝えたいことは、先ほど波に乗せたばかりだというのに。

 絵を運びながら、ふと思う。私があそこまで熱心に、平先生の話をしたのは何故だったのだろうかと。周囲からの、平先生の評価が低いと感じたのもあるのだろうけれども。それ以外の何かが、それ以上の何かが、あるような気がする。

 自分の手を見る。キャンバスの側面、銀色の釘がちらと輝く。私は顔を上げた。先生のいる方向だ。首と頬のラインのみが見えている。

 ──そうか。

 私はおそらく、無意識に考えたのだ。絵を作るのは技術のみではない。絵を描く画面についてもだ。キャンバスなら、麻布を限界まで伸ばし、釘を均等に、整然と打たなければいけない。そうでないと平らに張れない。布を伸ばすのは力仕事であり、大きなサイズのキャンバスなら、他の人の助けがいる。どうしても。

 つまり。

 私の絵は、私のみで作られたものではなく、他の人──平先生に支えられて完成したものだ。

 そう、考えたのではないか。──そうに違いない。

「ん、どうした。ニヤけてるぞ、顔」

 思わず目を見開く、私は顔を背け言った。

「い、いえ、何でもありません」

 なんとか取り繕う。返事はなかった。先生は進行方向を向く。返事の代わりに、こんな声がした。ぽつりと。突然に。

「さっきのスピーチ、よかった。ありがとうな」

後ろにも聞こえるよう、少し張った声で。こちらからその顔を見ることはできない。どのような意図と心情でそれを言ったのかは、表情が見えないうちは完全には分からない。けれど。分からなくてもいい。私はそう思った。平先生がどのような気持ちで言ったとしても、私の返事は一つに決まっている。

「こちらこそ」

前方が眩しい。オレンジ色の光が顔を照らす。その色に寂しさは感じられない。あるのはおそらく、温かさ。ほのかな熱は、私の体からも微かに、けれど確かに感じられる。特に頬のあたりから。

次は何を描こうか。今度は私の身近な人をモデルに、人物画を描いてみようか。少しくたびれた雰囲気を纏っていて、気づかれにくいところで親切をする、優しさとお節介を内包している、あの先生を。

搬出用の出口は目の前だ。扉はもう、開いている。

私と平先生は歩き続けた。


 

 


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