スレイプニルの装蹄
ストレイリア大陸の北方シルバの地は冬になると毎年大雪が降る。その日も一際激しい吹雪が吹き荒れる日だった。
シルバの山々の麓で牧童として暮らす少年ヌルの家のドアが激しく叩かれた時、母親と共に夕食後の穏やかな時間を過ごしていたヌルは心底びっくりして心臓が口から飛び出そうになった。シルバの山々は霊峰として名高い事から巡礼に訪れる旅人も多い。しかし、それも気候が穏やかな時分の話であって雪に閉ざされた冬の間は旅人などほとんど訪れない。
ましてやこんな吹雪の日に人など来ないと思っていたからだ。
ドンドン、ドンドンとドアを叩く音は休む事なく今も続いている。
「一体誰だろう」
ヌルは母親と顔を見合わせた。
母親の顔にも困惑と不安の表情が見て取れる。
ヌルは出ようとする母親を制止すると、
「僕が行ってくるよ」
そう言うと扉へと向かった。父親は冬の間は出稼ぎに行っていて家にはいない。この家と母を守れるのは自分しかいないという思いがあったからだ。
「どうかしましたか?」
ヌルが恐る恐る扉越しに訊ねると、ドンドンという扉を叩く音は止み代わりに低い落ち着いた男の声が聞こえてくる。
「すまないのだが、少し馬の調子を見てもらえないだろうか」
ヌルの家は馬宿でもあったので、巡礼の旅人が連れる馬の調子を見る事はよくある。しかしこんな吹雪の中をまして馬を連れて登るなど正気の沙汰ではない。
自分だけではなく馬も危険にさらす無謀な行動だ。
そう思うとふつふつと怒りが湧いてきた。そんな気持ちを抱えながら扉を開けると、そこには口元に豊かな髭を蓄えた大男が立っていた。
「あの、馬というのは?」
「ああ、こっちだ」
ヌルが極力不機嫌を表に出さないように気をつけながら訊ねると、男はそう言って体をどけて背後を指差す。
そこにいたのは一頭の体の大きな馬だった。
それを見てヌルは目を丸くする。
その馬は普通の馬ではなかった。
「スレイプニルを見るのは初めてか?」
美しい毛並みを纏い、見るだけで目が潰れてしまいそうな神々しい霊光を発している。
そして、何よりその馬には足が八本あった。
男は名前をオーガンと名乗った。
天界で軍馬として使われるスレイプニルを運んでいる途中だったのだという事だった。
しかし途中でスレイプニルは具合が悪くなり走らなくなって止む無くヌルの家を訪ねたのだ。
ヌルは母親と相談し吹雪が止むまでオーガンとスレイプニルを休ませる事にした。
「馬小屋だけど我慢してね」
「かまわんよ。雪と風が防げるだけでもありがたい」
家の中に入る事も薦めたがスレイプニルと離れるわけにはいかないという事でオーガンは馬小屋にいる。さすがにスレイプニルを家の中に入れるは無理だからだ。しかし、本人は至って気にした様子はない。
「オーガンは天界の人なの?」
「どうしてそう思う?」
「それは天界の馬を連れているからさ」
ヌルが言うとオーガンは「そりゃそうか」と笑みを浮かべた。
「まあ、エインヘリヤルって奴だ。ヌルはエインヘリヤルを知ってるか?」
「知ってるよ。ヴァルキリーに選ばれるんでしょ」
「そうだ、ヴァルキリーに選ばれた勇者の魂だ」
「あまり勇者には見えないけど」
「ははは、人は見かけによらないものなんだぞ。例えばヌル、お前だってヴァルキリーに選ばれるかもしれないぞ」
「ええ、ほんと?」
「ああ、戦いに出て死んだらな」
「死ぬのはちょっと……」
ヌルが小さくなるのにオーガンは「ま、そうだな」とおかしそうに笑った。
それから笑いを収めてヌルを見た。
「ところでヌル。ものは相談なんだが、お前、装蹄は出来ないか?」
「装蹄?」
装蹄〈そうてい〉は馬の蹄〈ひづめ〉を守る為に蹄鉄と呼ばれる金属製の板を着ける事である。人に使役される馬はそのままだと蹄が伸びる分以上に磨り減っていってしまう。それを防ぐ為に用いられるのが蹄鉄であり、馬の靴とも呼べるものだ。
「俺が付けてやったんだがどうにも収まりが悪いらしい。ここまで騙し騙しやってきたがとうとう歩くのも嫌になったらしくて吹雪の中を立ち往生ってわけだ」
そんな時に馬宿。つまりヌルの家を見つけて訊ねてきたという事らしい。そもそも吹雪の中を山を登ろうという所に問題がある気がするが、
「どうだ、出来るか?」
オーガンが確認するのに、その事はとりあえず脇に置いてヌルは頷いた。
「うん、出来るよ」
「そうか、では頼む」
オーガンがそう言うと二人は同じ馬小屋のスレイプニルの元へと向かった。
スレイプニルはあまりにも美しい馬だった。
厳かな神界を象徴するかのようなその佇まいは自分などが手を出していいものなのかとヌルに思わせる。しかし、それと同時にそんな神々しい馬が自分の付けた蹄鉄を履くという事に少なからず興奮を感じていた。
スレイプニルは足が八本ある馬である。
装蹄自体大掛かりな事ではあるが、この仕事は輪をかけての大仕事となるだろう。
一つ安心できる事があるとしたらスレイプニルがオーガンの事をとても信頼している事だ。オーガンが声を掛けるとスレイプニルは大人しくなり、ヌルが蹄鉄を取り替える事を受け入れてくれた。
「じゃあ、やってくれ」
オーガンの声を合図にして、ヌルはスレイプニルの装蹄を開始した。
まずは八本の足の一本を皮製のベルトで持ち上げるとスレイプニルの蹄に取り付けられた古い蹄鉄を釘を抜き取り外す。
その次に行うのは削蹄〈さくてい〉と呼ばれる蹄を削っていく作業だ。
ここでの蹄を削り方がうまくいっていないと歩き方に変なクセがついてしまったり場合によっては怪我の原因になる事もある。
ヌルはスレイプニルの蹄と鎌を使い丁寧に削り、ヤスリを使い丁寧に形を整えていった。
「ほぅ、うまいもんだな」
「まあね」
オーガンが感心したように言うのに、ヌルが誇らしげに鼻を鳴らした。
馬宿という場所がら装蹄を頼まれる事は多い。そのような場合は大抵はヌルの仕事になるので今となっては父親よりもうまくなっているという自信もあった。
蹄を削ると次は蹄鉄の調整である。
蹄鉄を削った蹄の形に合わせてハンマーで打っていくのだ。
蹄鉄を火で熱すると鍛冶屋のように何度も蹄鉄を打ちつけ形を作っていく。そうして形を整えると今度は適合の作業へと移る。
熱いままの蹄鉄を蹄に落ち着け、蹄に蹄鉄の形を焼き付けるのだ。こうする事で蹄鉄が蹄にぴったりと触れるようになる。
熱した蹄鉄をスレイプニルの蹄に当てると煙と共に爪の焼ける独特の匂いがあたりに立ち込める。
適合を終えたら最後に微調整をしてやっと蹄鉄を蹄に打ち付ける事が出来る。
装蹄用の特殊な釘を使って蹄に蹄鉄を固定していくのだ。
馬の足は中指が変化していったもので蹄の固い部分は爪の部分に当たる。釘はこの爪の部分に打ち込み蹄鉄を固定する。
当然それよりも内側に釘を打ち込めば馬は痛がる事になるので、馬の蹄に釘を打ち込む作業には熟練の技が必要になってくる。
装蹄をする上での腕の見せ所である。
ヌルはスレイプニルの蹄に再び蹄鉄をあてがうと固定する為に釘を打ち込んでいく。そして蹄壁から出た釘の先端を曲げ抜けないようにしてから表面をヤスリで整える。
一本の足が終わると一息つく間もなく次の足へ。そうしてヌルはその作業を計八本分繰り返した。
これはオーガンがヌルが作業する間に話した事である。
それは主に自慢話だった。
スレイプニルがいかにいい馬であるかを彼はまるで詩人が英雄譚を謳いあげるように話す。しかし、それはまさに英雄と呼ぶに相応しい活躍だった。
「どんな時も勇敢に駆け、千里の距離を一瞬に縮め、大空の戦場を縦横無尽に走りつくすんだ」
「スレイプニルは空を走るの?」
「そうだ。スレイプニルは空を走る馬だ」
オーガンが言うのにヌルは目を丸くする。馬が空を走るとは天界とは、神々の世界とは人智の及ばぬ世界である。
そしてそのような人智の及ばぬ馬の装蹄を自らが行っている事に震えると共に目の前のこの神々しい馬が空を走る姿を想像し高揚するのを感じていた。
作業は夜遅くまで続いた。
やっとの事でスレイプニルの八本の足全てに蹄鉄を取り付けたヌルはそのまま馬小屋の隅にある藁積みに倒れこむ。
別に眠るつもりはなかったが疲労感が彼の意識を奪うのも無理のない事だった。
次に彼が目覚めた時には、日が射し吹雪はすっかりと止んでいた。
「起きたか、ヌル」
そう声を掛けて来るオーガンの隣にはスレイプニルが毅然とした姿で立っている。
「スレイプニルの調子はどう?」
「ああ、すっかりいい。スレイプニルもヌルの付けてくれた蹄鉄を気に入ったみたいだ。今にも走り出したくてウズウズしているよ」
そう言ってオーガンがスレイプニルに触れると勇むようにスレイプニルは体を震わせた。
「それはよかったよ」
その様子にヌルは息を吐き目を細める。
それからオーガンが旅立つ時となった。
ヌルの母親に装蹄の対価として銀貨を数枚手渡すと、オーガンはヌルへと向き直りその手に一つルーンを握らせた。
ルーンとは一種のまじないである。
木片に刻まれたソレには牧場の繁栄を祈る言葉と優秀な装蹄師を称える言葉が書かれていた。
「ありがとう」
「では、俺達はそろそろ行くよ。世話になったな」
オーガンはスレイプニルの背に跨ると、その腹を足で軽く蹴る。するとスレイプニルがゆっくりと歩き出す。オーガンが掛け声をかけるとスレイプニルは速度を上げ雪を巻上げながら力強く走っていく。そして最高速に達した所でスレイプニルの足は地上を離れ空へと駆け上がっていく。
八本の足で宙を蹴りながら空へと舞い上がり、その後ろ姿は次第に小さくなり青空の中へと消えていった。
スレイプニルが空を駆ける馬だというオーガンの話は本当だったのだ。
銀色に光る雪原に残された途中で途切れている力強い足跡をヌルは誇らしげに見つめていた。
ここからはヌルも知る由もない事だがオーガンはオーディンが下界を遊山する際の仮の姿であった。
その後、オーディンはスレイプニルで戦場を駆け圧倒的勝利を手にする。
戦いが終わった宴の席で、下界に素晴らしい装蹄師が居たおかげだと彼の愛馬を撫でながら上機嫌に話していたという。